SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)とは、2015年9月の国連サミットで採択された、2030年までに「持続可能な社会をつくる」ために、世界で取り組むべき行動を示した17つの目標です。
ネットにこう書いてある。
私は国谷さんが23年間続けたNHKのクローズアップ現代を不本意ながら外されてから、報道ステーションの古賀茂明さんと共に一度話を聴きたい一人だった。
日本の報道の在り方が、あのころから変わり始め、今や政府に批判的な言動をする番組はほとんどなくなってしまった。
今香港では大騒動が起きているが、日本では色んな報道弾圧が行われても、だれも気にもしない。
とてものどかで平和な国だ。
国谷さんも、このことについては、講演では触れようとしなかったが、せっかくフリーになったのであれば、どんどん、日本の報道の現状について意見を言って欲しかった。松本芸術館を埋めた多くの人達も恐らくこのことが聞きたかったのかと思う。
国谷さんのお話は、SDGsについてであった。
「持続可能な・・・」という言葉は、私の昔の記憶を蘇らせた。
高木義之さんである。
今から20年以上前の話である。
仕事人間だった私が、突然目覚め、人間の生き方・考え方とか無農薬野菜と化学肥料、農薬、食品添加物の害、そして地球環境の問題にのめり込んで行った。
その手の本を200冊以上読み、また日曜ごとに会社の空き社屋を利用して、近隣の農家の人達と、無農薬の野菜だとか無添加の食品だとか、EM発酵させた生ごみを食べさせた鶏の卵とかを売ったりしていた。
高木義之さんの講演を先頭に立ってセッティングし、追っかけをやって大阪まで行き、丸一日のセッションを受けたりしたこともあった。
仕事そっちのけで、会社の食堂で、高木さんのお話を聴く会も開いた。
その時の、講演のビデオ、カセットテープ(CDはまだ無かった)、本を殆ど全て買い揃え、何度も繰り返し聞き、「地球温暖化」、「オゾン層の破壊」、「人口爆発」、「種の絶滅」、「森林破壊」、「食料自給率」等々、様々なテーマについて、自分で講義できる位できるような状態になった。
考えてみれば、いくら高木さんが声高に叫んでみても、いくら私のような狂信的な信者が自分のできることをやったとしても、時代の流れは、一向に止まらず、あれから20数年、高木さんが警告した通りの世の中に今、なってしまっていた。
その中で、ちょっと違ったのは、「エネルギー枯渇」の問題で、20年後、すなわち今頃は石油エネルギーが枯渇しているはずであったが、未だに中東も枯渇せず、逆にアメリカのシェールガスなどで、まだまだ当分賄える状態にある。
時代を読むに良く間違えるのは、「技術力の進化・進歩」である。
石油の切削技術の進化、シェールガスを掘り出す技術の進歩によって局面が大分変わってしまった。
私は、その後、会社の売上が奈落の底に落ち、だれもやりたがらない社長となり、自分のやりたい、やりたくないの気持ち拘わらず、会社をどうにかしなければならない立場に追い込まれて行ったのであった。
ただ、私が心を痛めた問題が勃発した。
東日本大震災時の福島原発事故である。
原発の問題は、その危険性は叫ばれていたものの、実際にあのような事故が起きるまでは、殆どの人が何の危険も感じないで来た。
この小さな地震国に原発を54機も作ってしまったことはもはや取返しもつかない。イーズスアシュアとか言う前に、原発テロの防御を考えるのが、国として大事なことなのは、だれが考えても明らかである。
北朝鮮は、夜な夜な日本に侵入し、何人もの人を拉致して行った。
夜な夜な、原発に忍び寄って爆弾を仕掛けるくらいのことはお手の物ではないか?と思う。
とにかく、私たちは子供や、孫たちに偉大なる負の遺産を残すことになったのは間違いない。
国谷さんのお話は、やはり洗練されていてなかなかのものであった。
しかし、仕事人間だった私をのめり込ませた、あの時の高木さんの迫力にはとても及ばない。
高木さんは、今のようなプロジェクターのない時代に、フィルム状の投影機を使って、様々な記事とか、数値を駆使して会場の一般人を説得して行った。
地球環境問題は最早どうにもならない。
国谷さんのお話では・・・・・。
人はどんどん増え、どんどん贅沢になって行く。➡人口爆発
水も食料も、とても賄いきれるものではない。➡食料不足,水不足
食料を採るためには、森林を畑にする必要があり、➡森林破壊
そのことが二酸化炭素のさらなる排出を促し、➡地球温暖化
海水が上昇し、今まで住んでいたところに住めない人達が続出、➡難民問題、貧困問題
難民が都市に集まり、都市のスラム化からテロ集団の発生、それが不安定な世の中にする。
ちょっととても持続可能な世の中は無理のようだ!
今、年金問題が騒がれているが、私はこの環境問題を追っかけている頃、盛んに「日本は姨捨山状態」になると叫んでいた。
少子高齢化が進むととても自分の親を見る余裕がなくなり、「早く死んでくれ!」という状態になる。
これを防ぐためには、今から自給自足をし、自分たちの事は自分達でできるようにし、ピンピンコロリ人生を目指そう!と色んな企画や案をまとめ、「結いの里こもろPPKセンター構想」なるものを打ち立て、実現に向けて盛んに発信したりしていたものだ。
20年以上経った今も、この構想は捨てていない、私の最後の事業として、できれば私と関係した人達だけでも、どうしようもない時には、このセンターに入ってもらい、どうにか人間らしい最後を迎えてもらいたいと思っている。
それにはかなりのお金と体力が必要となる。
身体を鍛え、コイル事業の発展が必要となる。