南イタリアの旅

プロローグ

今年の6月の株主総会で私は代表取締役を降り、ただの取締役会長となった。
そして現社長の隣にいるとついつい口を出してしまうため、今後は一切セルコの経営には口を出さないということになった。
まだまだ知力も体力もあると自負する私が、何もしないという選択肢はない。
私はまだもう一つの会社、(株)セルパップ(=コイルを使った健康グッズの会社)の代表をしているため、こちらの仕事に専念し、こちらに私の有り余る(?)力を注ぐことにした。
こちらの仕事をしていてやりがいがあるのは、お客さんからの反応だ。
「コイルがパッドから外れる」というトラブルが以前から時々あり、お客様の対応をと電話等でするのだが、通常この手のトラブル時は、商品や会社に対する苦情であり、恨み言、苦言が多いのだが、この商品に関してはほとんどが「使っていて良かったがコイルが外れてしまって・・・」とか「このコイルを使いだしたら、1日たりとも離れたくない」と言ってくれる。また初めのうちは多少「こんな高額の商品の部品が外れてしまうのはおかしいのではないか?」と感情的に訴えてくる人もいるが、話をしているうちに打ち解け、なかには友達のような親しみを持っていただけるお客様もいる。
また、楽天での口コミレビュー欄の評価がすごい!殆どが5の評価である。
よく、レビューに書き込んだら特典で商品を送る…というようなサービスをする会社もあるが、当社は一切そのようなことはやっていない。それでもほとんどが5を付け、この商品を買って「こうこうこんなことがあった」「買ってよかった」と書き込んでいただける。
私もそうだが、ネット購入してレビューを書く人というのは、よっぽどその商品が悪いか、逆に良いかということであり、この高評価というのはまさに商品販売会社にとっては『勲章』と言える。この感覚をもっとより多くの人達に味わっていただこうと、また拡販の戦略を考える大きな動機となるのである。
ちなみにこのコイルが外れるという問題が一切出ないコイルのパッドへの組み込み方法を私が考え試作を重ね、この9月からは売り出しを開始している。恐らく、この対策により今後は一度買ったら半永久的に使えることになるかと思う。これで苦情の連絡が入らなくなり、お客様の声を直接聞く機会がなくなってしまうのがちょっと寂しい。

私の勤務状況であるが、以前からから水曜日は休みとし、マレットゴルフ(ボールが75㎜あるパターゴルフの拡大版で長野県が一番盛んといわれている老人向けのスポーツ)をする日にしており、後の4日がセルパップの仕事となる。
それと、もう一つこの年になって心残りは「旅行」である。
特に70を過ぎ、社長を譲った頃にコロナの騒ぎが勃発、その後3年間は海外どころか国内の旅行もままならなかったが、昨年は念願のイギリスリバプールへ「BEATL WEEK」というビートルズの祭典に行ってきたし、今年は友人と奄美大島、ある組合で宮崎旅行、そして今回、南イタリアへの旅行を敢行することになったのだ。

南イタリアの旅

ターキッシュエアラインでエコノミー症候群?
2024年9月16日~24日の9日間、今年5月にグランツーリズム企画で私の友人が夫婦でツアーに参加したのと同じコースの9月のツアーに行ってきた。
今は専業となった(株)セルパップの仕事は、9月前半にあった楽天スーパーセールを終え、事務所の頼れる事務員に任せ、16日夜10時過ぎのフライトを目指して出発した。
この8月に、40になる娘が結婚し男の子が生まれた。
せっかく東京に出るからと女房とちょっとだけ立ち寄ることにした。
休日ではあるが月曜日の午後2時ということで、自由席にした。
ところが新幹線はなんと満席、結局大宮まで立ちんぼで行く羽目になった。
新幹線には何度も乗ったが、立ちっぱなしで東京へ行くのは初めての体験だった。
これは今思えば、この度の旅の行く末に暗雲を立ち込めた出来事であった。

赤ちゃんはかわいい。泣いてもかわいい、笑えばもっとかわいい。
この孫が果たしてどう成長して行くか?
見ていればきりがないから、5時半前には切り上げて浜松町からモノレールで羽田に向かう。
7時の集合にはちょっと早いが、夕食はJALのラウンジ優待券があるからそこで軽く済ませればいいだろうと、そのまま待った。
両替には結構並んでいた。
とりあえず3万円ほどユーロに換えた。
クラブツーリズムの団体窓口には20分前に行ったら既に受付が始まっていた。
それからが大変だった。今回二度目の困難!
搭乗手続きは自動チェックイン機で個人別にやるのだが、驚いたことに座席がとってなく既にネット予約でいい席は埋まっていた。
結局、自動チェックインで夫婦別々2人共3人掛けの真ん中となった。
また、自動チェックインしたらあとは席、荷物を預けるだけなのであまり列に並ばないかと思ったら、予想に反し長蛇の列で結局それからばっちり2時間並び、JALのお客様特典のラウンジ利用でゆったりしようと思っていたのが、そんな時間は吹っ飛んでしまった。
それも、ターキッシュエアラインはJALと違い、座席が前後左右狭いように感じ、そこへもってきて冷房が効きすぎで1枚のブランケットでは寒い。数時間眠れずに隣の人の様子を見てトイレに立ち、もう1枚ブランケットをもらい、ようやく2~3時間ウトウトしたが、とにかく腰や背中、脚が痛く、エコノミー症候群そのもののフライトとなった。前回のイギリス、リバプールのフライトもエコノミーで同じように長時間であったが、それほど窮屈な思いはしなかったが、今回は全くの他人と隣り合わせで、気持ち的な問題かかなり圧迫感があった。
トルコでトランジットし、マンゴーのジュースを飲み、クレジットカードで支払ったが、表示がユーロで領収はトルコリラという不思議な支払いとなった。

トルコからシチリア島カターニアへ2時間弱飛び合計約14時間、ようやく目的地シチリア島に辿り着き、17名の参加者と添乗員さんの計18名のバスによるシチリアツアーが始まった。

シチリアについて

シチリアという島は、イタリアとギリシャ、そしてアフリカ大陸に囲まれ常にあちこちから侵略された歴史を持つ島である。シチリアとはギリシャ語で「3つの岬を持つ島」ということ。紀元前1万年~9000年頃の石器時代からの遺跡が発見されている。紀元前4~5000年頃には農業が始まり、紀元前13世紀頃には古代社会の基盤が出来上がっていた。

紀元前1世紀頃にフェニキア人がこの地にやってきて、島の西部に都市を建設した。紀元前8世紀にはギリシャ人が東部にやってきて、東西南北の様々な文化が交流する非常に水準の高い独自の文明を育て上げる舞台となった。
シチリアを支配した民族は、フェニキア、ギリシャ、ローマ、回教徒、ノルマン、スワヴィア、スペイン…と限りない。
この島を18紀末に訪れた文豪ゲーテは「イタリアというのは単なる一文明社会ではない イタリアを理解することは、あらゆる文明を理解する事 つまりここは人類文明理解のための鍵なのだ」と言っている。

ゴッドファーザーのロケ地が多いタオルミーナ

旅行前にNetflixでゴッドファーザーを観た。
イタリアマフィアの家に生まれ育ち、それまではマフィアの世界から離れていた3男のマイケルが、父親を襲ったマフィアの親分との和解に自分が行くと言い出した。直前まで会合場所を知らされずに車に乗せられ連れて行かれたレストラン。
マイケルはトイレに立つ。トイレの水落しのタンクの裏に銃が隠されており、それをもって席に戻る。
マイケルが父親の病院に駆けつけた時、敵のマフィアに買収されていた警察署長により護衛が皆立ち退かされた後であり、マイケルは急遽父親のベッドを他の部屋に移動し、見舞いに来た人に頼み、2人で病院の前に銃を持ったふりをして立っていると、案の定とどめをさすための刺客が車でやってきたが、いないはずの護衛がいたためそのまま通り過ぎた。
そのあとそのマフィアの依頼を完遂できなかった悪徳署長がやってきて、腹いせにマイケルを殴りつけた。
マイケルの頬にはその殴られた跡が残り、この傷跡がマイケルのその後の人生を決定する象徴となったのだった。
レストランで、トイレから戻った瞬間にそのマフィアの親分と悪徳警官を射殺し、その後、故郷のシチリアで身を潜め村の娘と結婚したが、部下の裏切りで車に爆弾を仕掛けられ、車の運転を習いたてだった若い妻が車を動かそうとエンジンをかけた瞬間、車が爆発しマイケルの代わりに死んでしまったのだ。
この潜伏していた時のシーン、また父親が幼少のころ両親や兄弟を殺され命からがらアメリカへ逃げるまでのシーン、その復習に戻るシーン等々をロケしたというこのタオルミーナには大分興味を持って足を踏み入れた。

しかしそれらのシーンは、タオルミーナの様々なところで撮られており、今回のツアーには盛り込まれていないため、あの辺であのシーン、こっちの方でそのシーンというガイドさんの言葉に思いをはせるしかなかった。
この地で有名なウンベルト1世通りはかなり急斜面にあり、我が小諸も坂の街と思っていたが、ここに比べれば平地だ。

十字路があると、左右の道は結構な急坂の道、転げ落ちたらかなり危険…というようなところだ。レストランがその脇道の路地にあり、席が階段状にあるという正に合理的というか何でもありというか、「生きる」ことへのたくましさを感じるのだった。
更に高い山のてっぺんにも家があり、集落もある。その集落の一郭がゴッドファーザーのロケに使われたという。
また、高台から見るイオニア海の景色は大パノラマで地球の丸さが感じられた。
ここでジェラートを食べ、お土産を買い、イワシのパスタの昼食をとった。

ギリシャ劇場の壮大さ

そしてここには、有名な活火山イオナ山がある。
ケーブルカーでイオナ山の麓まで行くことになっていたが、噴火の警戒レベルが上がってしまい没となった。
このイオナ山を背景に紀元前3世紀、古代ギリシャはこの地を征服した時、丘のくぼみを利用し石灰岩の土地を掘り、石を積み上げ巨大な古代劇場を造り、エトナ山を背景とする壮大な観客席から様々な劇やパフォーマンスを楽しんだ。
後の紀元前2世紀にはローマの統治となり、ローマはこの劇場を競技場として再利用した。

ギリシャの石の建築とローマンコンクリートという水に触れれば触れるほど硬くなる材料とで、多くのローマの遺跡が残っている大きな要因となっているようだ。
また、レンガはこのコンクリートを固める際の枠だったが、そのままにしたためレンガ造りというまた一つ後世に残る建築法が残ったという。
ギリシャとローマの異文化が結合した結果、人間がこれほどまでに「芸術と歴史」「自然と都市」、「文化と伝説」を融合させた偉大で大傑作の構造物を後世に残すこととなった。ただ、このシチリアは位置的にギリシャ、アフリカに囲まれており、長い歴史からするとそれこそ入れ替わり立ち代わり統治者が変わり、その都度破壊されたり他のモノに流用されたりという繰り返しで、今回のその後の旅も全てそのような影響を受けた街が殆どだ。

それと、この地で語らなければならないのは教会だ。
どこへ行っても教会がある。
どこへ行っても「ドーモ」という教会があるから何かと思って調べたら、その地区を代表する教会がドーモというようだ。
それも皆、それぞれがいずれも荘厳で素晴らしい。
残念ながらあまりにもドーモを観すぎて、どこがどのドーモだったかはドーモよくわからない…。


ウンベルト1世通りから、結構早いゴンドラに乗り海岸端のホテルへと向かった。
ホテルに入って最初にパニクったのが、エレベーター、フロントが0階で部屋は2階、0階から乗り込んで1階で降りる人がいたため、その人たちが下りたところでドアを閉めようとしたが閉まるボタンが付いてない。それはいいとして2階に上がりたいのだが、いくら待っても動かない。エレベーターはただ1つ、下で待つ人がいるためどうにか早く上がりたいのだが、ウンともスンとも動かない。
仕方がないので、下の人は無視して階段で歩いて上がることにした。
結局、日本人はせっかちでエレベーターが動かないとあちこちのボタンを何回も押すが、イタリアの機械はそのようなせっかちさに慣れていないようで、エレベーターもパニックったのであろう。

そして部屋に入ってから第二弾、トイレの流すコック或いはボタンが見つからないことだった。大騒ぎしてからトイレの上側にあるプラスチックの盤がスイッチだとわかった。

それにしても日本のホテルとは違い、トイレタリーが何も置いてない。
ある程度予測して用意してはきたが、本当に歯ブラシ1つない。
夕食のパスタ料理を食べ眠りにつくが、夏の装いか?ベッドには薄いシーツのようなものが1枚、掛ける毛布もないため寒さで夜中に何度も目が覚めた。
朝散歩に出かけようと思ったが、5時頃はまだ真っ暗で外には出られなかった。
また電気ポットが無く、寝起きのコーヒーも飲めなかった。
今回の旅行で一か所だけ電気ポッドがあり、なけなしの有料の貴重な水を入れて沸かそうとしたが、結局ポッドが壊れており水で溶いた「夜明けのコーヒー」を飲む羽目となった。

シラクーサ(2005年文化遺産登録遺跡あり)

タオルミーナからバスに乗り2時間弱、シラクーサに向かう。
まずネアポリス考古学公園に降り立った。
ここには、タオルミーナと同じようにギリシャ劇場があり、別にローマ時代の競技場がある。 ここも石灰岩の長い丘が途切れる端の部分を利用して、B.C.3世紀タオルミーナの為政者が7000人のギリシャの捕虜を使い石灰岩を削り取りヨーロッパ最大規模といわれる半円形の巨大ギリシャ劇場を造った。15000人の観客を収容できる大劇場であった。

この石灰岩の削りというのがまたすごい。石灰岩といっても、当時の手作業で道具もない時代によくまあこんなに広くて大きなものを切り開いたものだ。
「天国の石切り場」という場所があり、いくつもの洞窟が彫られている場所にディオニュシオスの耳という耳の形をした洞窟がある。高さが23m奥行60mの巨大洞窟であるが、シラクーサの王、ディオニュオスがその上の部屋で、捕虜たちの内緒話を聴いていたということであるが、実際は声が木霊してしまいちょっと話を盗み聴くのは無理ではないか?とのこと。
確かに奥へ進んで行くと、天井の上に穴があいていてそこから聞いていたらしい。
どこかの団体がこの響きが良い洞穴で合唱をしていたが、歌っている人はともかく通る人には迷惑な話だ。

神々に生贄を捧げる大きな石の台があり、人の代わりに牛を最大500頭近く生贄にしたとのこと。
そして神様には骨、残り物の肉は人間が食べたのだという。
なんのことはない、神様に捧げる行事はただの「大バーベキュー大会」だったのだ。

シラクーサの街

このシラクーサの街も古代ギリシャの植民地であり、紀元前のギリシャ時代にはアテネに匹敵するほど繁栄していたとのこと。また歴史に名を遺す数学者、かのアルキメデスの出身地でもある。ガイドさんが「古き昔、アルキメデスが歩いた道を皆さんが歩いているのかもしれません」といわれても、あまりピンとこない。
ガイドさんがアルキメデスの有名なエピソードをしてくれた。
「アルキメデスの原理」の話だ。
当時の王様が金細工職人に金塊を渡し王冠を造らせたが、この王冠はその重量分の銀が混ざっているという噂が広がり、その真偽を確かめるべくアルキメデスに調査を命じた。アルキメデスはいろいろ考えた。なかなか思い付かなかったが、たまたま満杯にお湯があふれていた浴槽に自分が入った体積分お湯があふれるところを見て、この「アルキメデスの原理」を発見した。
アルキメデスは喜びのあまり、そのまま素っ裸で街に飛び出し「分かった!分かった!」と叫んで走り回ったという。
・・・ここまでがガイドさんお話であったが、私はもう一つの重要な発見のエピソードを知っている。
その素っ裸のフルチンを望遠鏡で見ていたガリレオ・ガリレイが「振り子の原理を発見した」ということであり、正にセイキの大発見であった。
よっぽどその場で言おうか思ったが、どちらかといえば高年齢よりの人が多いツアーで、顰蹙(ひんしゅく)を買うのは間違いないためここはしっかり我慢した。
ちなみにアルキメデスの世紀の大発見のせいで、その金細工の職人は処刑されたとのこと。
(とかくこの世はままならぬ!) ギリシャ神殿が改装された大聖堂(ドーモ)は、現在はバロック様式の優雅な佇まいであり、聖堂の中は黄金を誇っていた。

谷と谷の間の街ラグーサ(世界遺産登録年2002年)

標高502mのラグーサの期限は紀元前3000年に遡る(さかのぼる)
ギリシャ人の侵略により、周辺で暮らしていた原住民が山の方へ追いやられ、険しい山の中腹にできた街ということで、高低差のある二つの街からなっており、この街の谷には3つの高い橋がかけられて人が行き来している。
その後幾多の変遷を経て、1693年の大地震により下の方の街は壊滅的になり、シラクーサ出身のロザリオ・ガリアルディという人により現在のバロック調の街が誕生し、上の街は18世紀に新興貴族等によって碁盤の目のような整備された街並みになったとのこと。
上の街から下の街を見下ろす風景は圧巻であった。

この坂の街、結局上下の街を歩き合計2万歩、坂あり階段ありの歩きづらい石畳が多い街を歩いた。
ホテルはこの街から結構離れた場所だったが、私はできればこの上の街から下の街を見下ろす夜景が観たかった。
街にはお爺さんたちがうようよたむろしていた。
ガイドさんの話によれば、引退をした男性たちは何もやることがなく、毎日街に出てきてベンチに座り、街を歩く観光客とか若い女性を観て楽しんでいるとのこと。
私はよっぽど、この地にマレットゴルフを普及させてあげたいと思った。
マレットゴルフというのは、全国でウッドゴルフとかパークゴルフとか色んな名称となっているが、我が長野県ではこのマレットゴルフがかなり盛んで、おそらく健康寿命を延ばしている一要因かと思う。
1回のラウンド72コースで7000歩位歩くが、ゴルフと全く同じでパーだ、ボギーだ、バーディーだ、はたまたOBだと夢中になっているうちにすぐ終わってしまう。
ゴルフより面白いのは、時たまホールインワンが出たり、ロングコースでアルバトロスが出たりするからこれがたまらない。
今回一緒に行った女房も、このラグーサのような坂道、階段道を2万歩も歩けたのもこのマレットをやっているお陰かと思う。
このスポーツを全国レベルで広げれば、日本の健康寿命も2、3年は即上がるかと思う。

私にもし力があったらこのスポーツを全面的に取り入れ、全国の河川敷とか空き地にきちっとした設計士によるコースを造り(コースの良し悪しが問題)、無料で開放し、全国大会を開催し、果てはオリンピックの新競技にできたら・・・と思うのだ。

陶器の街、カルタジローネ(世界遺産2002年登録)
からギリシャ神殿のアグリジェントへ(世界遺産1997年登録)

遊園地によくあるようなミニ電車仕立ての連結車両に乗り街を散策する。
シャイな日本人と違ってイタリア人はあけっぴろげでおおらかだ。

この連結車が狭い路地を走って行き、その辺の住民や観光客は一様に手を振りながら「チャオ」とかなんとか声をかけてくる。
そんな時は、ついつい我を忘れて大声で応えたりしてしまう。人類皆兄弟なのだ!
途中下車し、142段の長い階段を上った。
階段1段1段に陶器のタイルがずらっと貼り付けられているが、上るのが精いっぱいで、とても鑑賞する余裕はなかった。

上れば何かあるかと思ったら何もなく、女房の写真を撮ってまたひたすら下った。
ちょっとした自由時間ということで、洋装店に入った。
男物はなく、結局90€(14000円超)で女房の服を買うことになってしまった。一応、観光客が観光地で買う時の礼儀(?)として、ディスカウントした。夏物はそろそろの時期だから元々安く値はついていたといころに更にまけてくれたが、決して安い買い物ではなかった。

ここで昼食をとり、アグリジェントへ向かう。
アグリジェントはなんといっても、「神殿の谷」だ。
ギリシャのパルティノン神殿のような神殿が立ち並んでいる。

中でも紀元前450~440年ごろに建てられたというコンコルディア神殿は石の柱はほぼ残っており、地震にも強い構造で幾度となく為政者が変わっても、教会として転用されたりして今日まで残っている。
確か以前、NHKでこれらの神殿の特集を観たと思う。
このような神殿はギリシャだけかと思ったら、ギリシャのパルティノン神殿よりもかなり良い保存状態でこのシチリーに、それも2000数百年経ち続けていることはすごいことだ。
夜の食事は、このライトアップした神殿が立ち並ぶ丘が見えるレストランでの会食となった。

ここから約2時間のバスの旅、窓の外は照り付ける強い太陽、抜けるような青空に真っ白な入道雲、真っ青な海と樹々の少ない高原をスマホで「ゴッドファーザーの愛のテーマ」を聴きながら行く。
なんとなく心豊かになり、この年まで生きられた喜びを感じる。
このツアーは、現地での7日間全く雨には降られず、天候もちょっと秋模様でそれほど暑くはなく、私の「天気男」が証明された旅であった。

芸術の街モンレアーレからシチリア最大の都市パレルモへ(モンレアーレの大聖堂とパレルモのアラブ・ノルマン様式建築群とチェファルー2015年世界遺産登録)

モンレアーレのドーモ=大聖堂は、シチリアに残るノルマン芸術の最高峰と称えられている。
このドーモは豪壮華麗にモザイクで飾られており1172~1182年に修道院、王宮などを含めた一つの建築群として建てられ、上部は当時盛んだったアラブ装飾の交差アーチで飾られ、下層部は18世紀後半に柱が付け加えられ、両脇の塔と連結している。
ドーモの内部は、それは圧倒的に豪華であり、巨大なキリスト像、王座の聖母と諸天使、十二使徒等々、そして壁の周りには、旧約聖書や「アダムとイブ」、「カインとアベル」、「ノアの箱舟」等の物語がきれいなモザイクで語られており、この建物のどこを見ても余すことなく、素晴らしい絵が描かれており「最高峰」というにふさわしい、見事で見飽きることのない美しさであった。

このようなものを創れる時代と人達がいたことに、驚きと畏敬の念を感じた。

ここからシチリア最大の都市(人口68万人)、パレルモに向かいまたしても荘厳なパレルモ大聖堂=カテドラーレ(1184年創建)を見て回った後、かのゴッドファーザーPARTⅢの最後の場面=アル・パチーノ扮するドン・マイケル・コルリオーレが劇場から出てきた階段で敵に狙われ、銃弾が自分を貫き娘に当たり娘が亡くなってしまい、天を仰いで嘆くシーンが撮られたマッシモ劇場に着いた。
映画は映画ではあるがこのゴッドファーザーという映画は、マイケルという本来は妻ケイと家庭を持って静かに生きるはずの主人公がマフィアの世界に入り込み、その非常な世界と本来の世界とのはざまで、人間の内面の葛藤=恐怖心、怒り、欲、悲しみ、苦しみ、寂しさ等、また人間の因果という避けきれない宿命を見事にスクリーンに表現した大作であり、名作かと思う。

この劇場の前で自由時間となった。
私は、陶器の街カルタジローネで買えなかった自分の洋服を買いたいため女房と見て回ったが、女房は戻ってマッシモ劇場の前で待っているというので一人で見て回った。
紳士服の店があったため試着したが、なかなかサイズが合わない。
ようやくサイズがあったシャツと、袖丈がちょっと長いブレザーを買うことにしたがいずれも夏用の商品であり、ここは張り切って値引きをしようとポケット翻訳を取り出して「いくらディスカウントするか?」と聞いた。
結局、お決まりのこちらの最低値とあちらの売値の中間でどうだと言ってきたが、譲らずに黙りこくったらこちらの言い値まで下げることになった。
こういう話が通じない場合は、何も言わずに固まっていれば相手が困って譲歩するものだ。
無事買い物を終え、ジェラート屋さんでジェラートを買い、食べながら待ち合わせ場所のマッシモ劇場へ行ったら女房の姿がない。
あちこち見まわしてみてもいない。
どうしたかと思ったら、しばらくして女房が現れた。
迷っていたとのこと。
迷うといっても、マッシモ劇場から直線で来て左に曲がった路地から戻っただけである。
その結構広いマッシモ通りを突っ切ってその先の道路まで行ってしまい、道が分からなくなりイタリアの女の子にマッシモ劇場の写真を見せて、ようやく戻れたとのこと。
私は自慢(?)の”方向音痴”だが、私の女房はそれに輪をかけて方向音痴だということが良く分かった。

とんがり屋根のアルベロベッロへ(1996年世界遺産登録)

パレルモに泊まり、翌日バスに乗り込みシチリア島を離れそのままフェリーで本島へ向かい、今回最も楽しみにしていたあのとんがり帽子の家が立ち並びアルベロベッロへと約3時間の旅となった。
着いて夕食後、ツアーとしてはオプションもなくそのまま寝るだけであったが、私は事前にチェックし、夜のアルベロベッロを観に行かないかと同行の人達に声をかけ、結局結構な人達が散策に出かけた。

ホテルから街に出ると広場がありそこがライトアップしていて、途端に何かおとぎの国に来たような気分になった。
そこからとんがり屋根の家に向かうと、正におとぎの国そのものであった。
写真をガンガン撮ったが、この何とも言えないムードはとても写真や動画で表現できるものではない。

やはり何十万という出費をして初めて味わえる感覚なのだ。
翌日の朝はこの街で「陽子の店」という日本人の奥さんが経営しているとんがり帽子のお店の息子さんの案内で、街を案内してもらった。
このようなとんがり屋根の家が、結構800とか1000とか分かれてある。
なぜこのようなとんがり屋根の家ができたのかというと、その昔時々役人がきて今で言う固定資産税を払わされるため、それを逃れるためにいつでも取り壊せるように屋根は石を積み上げただけの構造にしていたのだという。
要するに、日本の瓦を瓦だけで積み上げたような屋根だ。
しかし、そのお店の中を見たら、ちゃんとモルタル作りであった。
当然、ツアーの最後はその「陽子の店=Yoko’s shop」へ案内された。
ここでのこの陽子さんのプレゼン能力が非常に高く、「ハイこの塩舐めてみてください」「ハイ、こちらのチーズ」とかサンプルの試食を薦められ、結局単純で方向音痴(関係ない)の2人はかなりの買い物をしてしまった。
それでもそのとんがり屋根の家の屋上に上がらせてもらったがこれは圧巻だった。
周りがほぼとんがり屋根の家だったからだ。

洞窟の街マテーラ(1993年世界遺産登録)~ナポリ

洞窟住宅”サッシSassi”が渓谷の崖や斜面を利用して作られた洞窟住宅群で、まるで迷宮のような街である。
中に入ると、本当に迷路のような道だ。
この道を下り、洞窟の一郭にあるレストランで昼食をとった。
洞窟の家の民家の見学があったが、馬とか鶏も一緒に寝泊まりしていたということ。
狭いながらも生活に必要なものは全てあった。
岩石を使った劇場、石の屋根の家、洞窟の家、昔からこの地方の人々は自然を上手く活用しながら、歴史を刻んできたのだと思った。

ここからこの日はナポリに行った。
ナポリ、ポンペイは私が22歳、56年前に学生生活の最後にヨーロッパ9ケ国の旅行をした時にローマからのオプショナルツアーで訪れたことがあり、「ナポリを観て死ね!」という言葉がある通り、その時にナポリ湾を望む高台からの景色がいまだに目に焼き付いており、ここは自分もそうだが女房にも是非見せてやりたいと思っていた。
ところがバスが着いたのは、ナポリの街から外れた車のディーラーが立ち並ぶような郊外のホテルであり、バスが着いたその前には鉄格子の門と大きな石の高い塀があり、クラクションを鳴らすとその大きな鉄格子の門が開きそこへ入って行く。
何かホテルというよりも監獄に入って行くような感じだった。
その駐車場から大きく重いキャリーバックを各人、車輪がスムースに転がらないような駐車場の道を進み、これがメインのフロントか?と思わせるような狭く質素なフロントに連れて行かれ、ここが0階だけれどもエレベーターは1階だとか、訳の分からない説明をされた。我々はラッキーにも0階だか1階の部屋だったが、やはり結構お年の人の多い団体だったため、自分の部屋の階数で迷った人もいたようだ。
夕食のレストランは、隣のホテルのレストランまで歩いて行くということで、先ほどバスが入った鉄の扉の所から歩いて隣のホテルで食べた。
食事後、添乗員さんにタクシーを呼んでもらって港を見渡せる展望台まで行って帰ってもらうよう交渉してもらえないか?頼んだが、添乗員さんはナポリは治安が非常に悪く、タクシーを呼んでもどんな運転手が来るかわからず、ぼったくりとか悪さをしたりされる危険があるためお奨めできないと頑なに言われ断念した。
結局、ナポリ一泊はナポリの街も何も観ずに、隣のホテルまで歩いただけという情けない一泊であった。
インターネットを観ると確かに一部大分危ないところはあるが、タクシーに乗ったら命が危ないような街が観光地として残れるわけがないか?と思うがそれは何とも言えない。


今回の旅の目的の一つはイタリアの食事だった。
色んなYoutubeの旅行動画を見るとどこへ行っても「美味しい!」「美味しい!」といっているから、胃腸が弱いが美味しいモノには目がない私は、この旅行の最大の危険はこの食事にあると思い、行く前はかなり意識して胃の調子を整えて臨んだ。
ところが意(胃?)に反して、今回のツアーの食事は朝はバイキングだが、昼夜がほとんど同じようなトマトソースのパスタが多く、それも日本のイタリアンに比べてそれほどの味でもなかった。
3日後くらいになると、私も他の人も半分くらい残すようになった。
これは私の想像ではあるが、ホテルと食事の予算が大分削られたのではないか?と思う。
ここのところの円安でツアーの料金はそれほど極端に上げられないため、結局ホテル、食事のコストを落としたのではないか?と思う。
この2つを除けば、最初から最後まで同じバスによるツアー、3人の現地ガイドの人達、羽田からの添乗員さんも一所懸命頑張っており、問題はなかった。
そんなことで、私の懸念していた食べすぎによる胃腸の課題は問題にはならなかったためその点では助かったが、やはり旅行の醍醐味「あそこのあれは最高!」というような「食の思い出」は欲しかった。

ポンペイ(1997年文化遺産登録)から帰国へ

ポンペイも私が以前行ったことのある観光地だったが、この日は日照りがやけに強く、ポンペイの石でできた道を歩くのは結構しんどかった。

豪華大型客船の団体客が多く入り込んでいて大分込み合っており、脚の悪い人いるため17人の団体で移動するのはかなり大変だった。結局、混雑しているメインの建物の方は観ずに円形競技場まで行って帰ってきた。56年前に来たときは、何とかの館とか言って結構なお屋敷の跡を見て回ってかなり印象が強かったが、今回は全て外から中を観るだけだったため、こちらもちょっとがっかりした。
ナポリもポンペイも知らなければそれで済んだものが、たまたま知っているものがあったため「物足りない感」が残った。
このポンペイの昼食で初めてピザが出たが、その前に出たパスタを結構食べてしまったためせっかくのイタリアのピザであり、厚めの耳の部分を残してどうにか食べた。

ここからナポリの空港に向かい、そのままターキッシュ航空に乗、イスタンブール経由で計14時間のフライトで帰国の途についた。
帰りは行きと同じ狭めのシートではあったが、女房が隣だったため行くときに比べると気持ち的にも楽だったし、学習効果もあり大分楽だった。
それとちょっと意外だったのは、行きも帰りも機内食が出たがこれが意外にも美味かった。
私はこれまで機内食はチョコチョコと食べてほとんど残すようにしてきたが、今回の行き帰りの機内食は逆にほとんど食べられた。
イタリアの食事はNGであったが、トルコの飛行機の食事はVery Good!であった。
ただこの島はどこへ行っても世界遺産があり、いささか私もイサン(胃酸)過多気味であった。

海外へ行くと、我が祖国日本との違いを強く感じる。
まずは、ホテルのエレベーターの違い。
とにかく遅い、来るのも動きもゆったりで荷物がない時で2階や3階だったら、歩いた方が早くてストレスがない。
トイレ・洗面所は水力が弱く紙が流れないことが多い。ウォッシュレットなどは夢のまた夢。公衆トイレなどは有料だったりするが、めちゃ汚れており便器に便座がないなどひどすぎるトイレもあった。
自動ドアも少なく、ホテル等も手動ドアが多い。(安かったせいもあるかも・・・)
ホテルの近くには、コンビニはもちろんスーパーがなく、旅行中一回しか買い物ができなかった。
消費税は内税(22%)で、表示はどこへ行ってもトータル価格で分かり易い。レストランの店員は平気でお客を使う。料理を持ってきた時こっち側には来ず、向かいのテーブルから皿を受け取れと平気で言う。また皿をトントン投げ置きしたりするところもあり、これは中国のサービスぶりを思いだした。
イタリア料理のレストランであれば水は冷やしてワインの瓶に入っているのが日本では定番だが、有料でもペットボトルそのまんまのレストランが多く、これもムード的にもがっくりだった。水は2€(320円)で750mlと有料のレストランが多かった。
日本のレストランでは座ればおしぼりが出て水が出る。調味料も一通りそろっているし、客として不便なことは先ずないし、接客も親切丁寧だ。
海外から日本へ来れば、素晴らしいと思うのは当たり前だ。
このシチリア島は、オリーブとブドウ(ワイン)の島といっていいほどオリーブ畑とブドウの木が多い。
一戸建ての家には、必ずこの2つを植えるとのこと。
風力発電のプロペラがあちこちで見たが、隣はスムースに回っているがその隣は止まっているようなのが結構ありこれはもったいないと思った。
風力発電はイタリア全土で7%と日本と比率は同じくらいだが、この島だけで見れば100%という話もある。

終わりに

私は最近どこの国へ行っても日本との比較をする。
そこでいつも思う。
「日本という国はすごい国だ」・・・と。
まず日本はきれいだ。
どこへ行ってもきれいで文化的だ。
イタリアのトイレは汚いし、街もかなりあちこちに色んなものが投げ捨てられている。日本は、様々な生活インフラが進んでいる。
最も顕著なものはやはりコンビニの存在だ。
コンビニに行けばとりあえず必要なものは何でもあり、時間も遅くまでやっていて朝も早いから本当にコンビニエンス(便利)だ。
日本はホテルの傍には必ずコンビニがあり、ホテルで必要なものは全て揃えられる。
今回のイタリアはスーパーもほとんどなかく、サービスの水もないため、水の買い置きには苦労した。
もっと言えば百円ショップ、ファミレス、ユニクロ、しまむら、ワークマン、カインズといった店がしのぎを削って、「もっと安くもっと良いモノ」の追求を競っている。
今回円安の影響もあり、イタリアは何を買っても食べても高かった。逆に言うと日本は安い。
ホテルやレストランでのサービスは、前述しているが、日本のようなきめ細やかなサービスはまずない。
これらのことを総合し、日本人はやはり他の国とは違う特性、特質を持った国民だということができる。
よーいドン!で同じ目的の課題を与えられれば、日本は間違いなくその分野で一番になる。
かつて、日本の製品が世界の中で最も安く最も優れているといわれ、世界にもてはやされていた時期があった。そう「メイド・イン・ジャパン」の時代だ。
当時の家電製品などは、細かい部品から全て日本人が造っていたから、ほぼ完ぺきなモノ造りができていた。今の家電は国産といっても部品は海外ということがあり、品質はそれなりだ。
このまま書き続けると、私が2年前に書いた「シン・メイド・イン・ジャパン」になってしまうため、この辺で止めておく。
要するに日本人は、人と人との和を尊び、みんなで良くして行こうという協調の精神にあふれ、また、一つのことに真摯に打ち込む人ができる大変特殊な民族であるということに帰結するのだ。


・・・とにかく、生きている間に、一度は行ってみたいと思っていた南イタリアへ行けたことに感謝!
この年齢にして、時間とお金と健康と・・・全てに感謝!
これらの何一つなくても、それは不可能だからだ。
これからも更に健康に留意し、お金を貯めて、できるかぎりこの老春(?)を謳歌したいもんだ。

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石丸伸二は日本の希望?

今東京都知事選の真っ只中、3期目を目指す小池百合子氏、自民党の裏金問題の弱みを土台に一気に都知事を狙う蓮舫氏、そしてそこへ突然、前広島安芸高田市市長の石丸伸二氏が割り込んできた。
前二者はこれまでの実績と知名度と既存の様々な組織や団体を背景に持つ、これまでの選挙のスタイルを踏襲したいわゆる組織票と呼ばれる票を基盤としている。
これに対し石丸氏は全くそのような組織はなく、唯一の実績は安芸高田市の市長4年間のみだ。
テレビや新聞は“小池、蓮舫の一騎打”風な報道で、石丸氏はその他の50人余りのうちの筆頭格的な扱いでしかない。どう考えても不利な戦いでありこれまでの選挙、政治を考えると「ありえない」候補者である。
しかしかなり善戦している。
その背景にあるのはネット、SNSである。
私も息子にこんな市長が居てネット上を賑わしているよ・・・と言われ、ここ3ケ月前位からユーチューブを観ている。
安芸高田市長時代は議会での議員とのやり取りの炎上、そして各メディアとのやり取りの炎上によってユーチューブを始めとしたSNSで全国の視聴者の心を掴んできた。
そして任期4年を迎えたこの時に突然、東京都知事選に躍り出た。
20日から始まった選挙戦、石丸氏はお得意のSNS拡散でネット上を大いに賑わせる。
ドトールコーヒー創業者の鳥羽博道氏が安芸高田市のネットを観ていて熱烈に石丸氏を支持、その関係で選挙のプロ藤川晋之助氏が選挙の陣頭指揮を取るとのこと。
その他、政界の人、財界の人、様々な人達が応援する。
ただ石丸氏は特定の人からの多大な応援は断っている。
一番の信条に挙げているのが『何からも誰からも縛られない政治』だからだ。

この構図をそのまま鵜呑みにして考えると今までの政党政治・利権団体政治・宗教団体政治・マスメディア政治 対 無所属・無利権団体・無宗教団体・ネットによる一般市民による戦いということになる。石丸氏の言う「政治屋の一掃」である。
この戦いは日本の将来を決めるきっかけになるかもしれない。

既存の政党、長年積み上げてきた利権構造の政治を本当の意味の一般大衆の手に取り戻す選挙ということになり、正に「革命」ともいえる。
安芸高田市政で石丸氏は議会との戦いをSNSを通じて安芸高田市のみならず全国に発信し、その是非を問うたのだった。
これをもし東京都でやったらいったいどういうことが起こるのか?
それこそ今の一部の先進的な人たちにとどまらずほぼ国民全体に議会の様子が伝わり、これまで全く関心を持たなかった議題の一つ一つが見る人々にとって「他人事」から「自分事」に代わって行く可能性がある。
はっきり言うと今まであまり明るみに出なかった東京都の様々な事柄がリアルタイムにネットに流れ、その是々非々が全国民を巻き込んで問われることとなる。
おのずから国民の政治への関心を呼び起こすことになり、勢い国政にもその目が向けられることになると思われる。
これらのことが”成功”すれば間違いなく第二第三の石丸氏が次々に現れ、各県や市、村のレベルからこの国が変わり始め、やがてそのうねりは国中を巻き込むことになる。
当然様々な事が改善され、これまでの膨大な無駄や不正な支出はなくなり間違いなくすべての施策は全体最適の方向へ向かうであろう。
石丸氏が言う。「日本は、経済は一流、政治は三流といわれてきたが、政治が三流だと経済も三流になる」
確かにその通りだろう。
戦後の驚異的な経済発展の陰には政府の大きなかじ取り、支援があった。逆に半導体産業のように政治力の弱さにより海外に持って行かれてしまったような事例もある。
政治に力をつけるためには政治家が国のため、国民のために知恵を絞りまずは日本の経済を立ち直す必要がある。
海外の国々とりわけアメリカに対しては、それこそうまく立ち回る必要があるし、中国、ロシア、北朝鮮等に対しても外交の力で本当の意味の防衛をする必要があると思う。
今はアメリカには絶対服従、アメリカの敵対国に対してまた核兵器の問題に対して唯々アメリカの意向に沿うのが外交となってしまっている。
それと一つの国として絶対やらなければならないのは食料の自給、エネルギーの自給である。これは政策というよりも自立した国としては当然いの一番にやらねばならないことだ。

話は飛躍していつも私が思っているこの国の課題となってしまったが、とにかく石丸氏の今回の活躍は、ネットという新時代のツールの登場によってテレビや新聞、雑誌等のマスメディアがネットに、手紙やはがき等の通信手段がネットに、買い物も店頭からネットへと変わったように、政治もネット時代に突入しようとしているという表れである。
早くネット投票になればよいと思うしそうすべきであろう。
投票率が50%だ60%だと言っているような状態では本当の意味の選挙とは言えない。
今回の選挙で石丸氏が当選するか否かは、わからない。
ネットでは大盛り上がりをしていても一般マスメディアはほとんど報道しないため、テレビ、新聞世代にはほとんど無名のままでありやはり「現職は強い」。
しかしあと10年もすれば間違いなくそういう時代が来ると思う。
もうすぐ78歳となる私にとってはできれば一日も早くそのような時代になり、国民が政治に関心を持ち、政治が変わり、経済も変わり、日本が良い方向にどんどん変わって行く様を冥土の土産にしたいものである。


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一面トップにセルコの記事が載る

4月14日、日曜日の「信濃毎日新聞」に当社の記事が載るということで、定例のテレビ体操をしていた私は、新聞を持ってきた女房に「セルコの記事が載っているから探して」・・・と声をかけた。
ところが、女房は一向に記事を探す様子がない。
最近耳が遠くなってきたから聞こえないかと思い、更に声を張り上げたがそのまま新聞の一面を読んでいる。

体操を終えて、その意味が分かった。
セルコの記事が一面トップに載っていたのだった。

かつて当社がまだ低迷していた頃、低迷している割には結構、新聞、雑誌、テレビ等のメディアに出る機会が多かった。
この長野県でダントツに読まれている通称“信毎”と呼ばれているこの新聞には、やれ円高だ、やれリーマンショックだ・・・と何か世の中の変化がある毎に当社は、中小零細の零細代表のような会社としてよく取材されたものだった。

今回の内容は、小さな会社の「賃上げ」に関する記事で、その代表として当社が選ばれたにすぎないが、さすがにこの新聞のトップページに写真入りで載るというのは今までなかった。

地域社会的には『快挙』である。

息子が社長になって経営者としてどうか?の不安もあったが、まさに「社長」という職責・立場が人を育てる。
中小の社長が集う「経営塾」に通い、同年代の社長たちと情報交換(悩み相談?)を行いながら、経営者としての勉強を積極的にし、かなり急速にその感覚を磨いてきつつある。
私は長年、我が子のようなこの会社を守るために必死でやってきたため、息子がやっていることについつい口を出してしまい、それが息子にとって煩わしくなってきたようだ。
そこで、私は一定の条件を出して、今後は「一切セルコの経営には口を出さない」ということにした。
ただ、「意見を求められれば幾らでも応じるよ!」と言ってある。
そんな中での今回の新聞記事である。
世の中的にもこれで立派な「セルコの社長」ということではないか?

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年末、年始に当たり

あっという間に年末年始が過ぎ、また1つ歳をとる…と書いたが、先般読んだ本に、いつまでも脳を衰えさせないための一つに、「自分が歳をとった」とか「歳だから…」というような言葉を使わないこと…というのがあったため、私もこれからは余り自分の歳のことは言わず、むしろ歳を忘れ、自分の体力、能力に応じた計画とか行動をすることにしようと思う。

年の初めに大きな地震。
家に居た私は、かなりの揺れとその長さに2011年3月11日の東日本大震災を思い出した。(9.11とか今回の1月1日とか、災害や大きな事件はゾロ目が好きなのか?)
即、テレビを点けると、今度は石川県能登半島だった。
テレビは前回の件があるため、「津波に注意!直ぐに逃げてください!」と大声で呼びかける。これまでは確か「火の元を確認して!」というのが定番だったが、今回はひたすら「津波、津波」だった。
しかし結果的に今回は、津波の被害よりも、倒壊、火災、土砂崩れの被害が多かったようだ。
私はこのような事態の場合、即、自衛隊の出番だと思った。
状況が分からない…ということがあり、直ぐに決断をするわけには行かないと思うかもしれないが、私は直感的に「とりあえず行動」が必要だと思った。
大分昔に、写真撮影旅行で能登半島一周の旅をしており、あの入り組んだ地形ではかなり大変だろうと思っていたら案の定、道路が寸断され、孤立状態の集落が沢山出た。
それこそ、自衛隊がいち早く駆け付け、ヘリコプターやドローンを飛ばし状況確認をし、対応できるところは対応すれば、亡くなった人の何人かでも助かった可能性がある。
結構強い余震があり、ここはとても民間、一般のボランティアの出番ではなかった。

私は以前から、日本の自衛隊は「災害救助隊」という名称に変更し、様々な災害時の救助、救援、救出のレスキュープロフェッショナルとなり、そのための特殊車両から重機、ロボット等の専用の機械や道具を開発し、救援物資も即輸送できるよう常に準備しておくような態勢を取ったらどうか?と思っている。そして、日本国内は勿論、海外のいかなる国へも行く用意があるということを世界に発表し実行したら、日本は世界から絶賛される国になるのではないかと思う。
勿論、普通の国は他の国の援助要請を受けにくいだろうと思うが、まずは受け入れる国から実績を積めば、そのうちに、その国の災害にあった国民が、「日本の災害救助隊を呼んでくれ!」という話に徐々にでもなるのではないかと思う。
このように人を殺すのではなく、人を助けるための組織であれば、どんな国でも日本をリスぺクトし、もし日本を襲う国があれば、世界中を敵に回すことになり、結果的に「日本防衛」の「自衛隊」になるのではないか?と思う。

また翌2日の羽田空港での日航機と自衛隊機の接触炎上事故も衝撃的だった。
亡くなった5名の自衛官はお気の毒だったが、日航機の乗員、乗客379名全員が無事だったというニュースは凄かった。
乗客の撮った動画がテレビで流れたが、あの煙が充満してくる中、CAの「席を立たないでください!」、「バッグを下ろさないでください!」という注意をみんなが守り、結果的に全員が飛行機を降りることができたという事実は、これがもし海外のどこかで起きたのだとしたら、果たして乗客はこのような冷静な行動をとっただろうか?と思ってしまう。
そのCAも、全員が昨年4月から勤務を始めた新人だったとのことで、これもまたびっくりした。
又、機長が最後の最後、残された乗客がいないか、機内を端から端まで確認してから脱出した姿は素晴らしく、まるで映画の1シーンのように格好良かった。

セルコのことをいうと、後継社長(息子)が大分しっかりしてきており、あまり口を出すこともなくなってきたように思える。最も、私と全く同じかと言えばそれは違うため、会議で私が口を出すともめることになるので、今後は出来るだけ引っ込んでいる方が良いか…と思う。
ただ、最近は業績的にいうと、築き上げてきた5本、6本の柱がちょっと揺らぎ始め、続く6本、7本目の柱が未だきちっと台頭して来ておらず、これまでのような「飛ぶ鳥を落とす勢い」状態ではなくなってきたことで、社長も「金融引き締め状態」に入っているように思える。
しかし、ほんの8~9年前までのセルコは、借金を背負いながら地の底を這うような状態で、いつ経理から「社長、来週火曜日に手形が落ちません」と言われるか分からないようなことが日常だった。その時と比べると、「天国」のような状態なのだが、その時はその時で今は今ということか?
ただ、今の社長は現状の対応に問題はないが、「将来飛躍するための準備」とか「そのための心構え」にちょっと難点があるように思える。
それは具体的にいうと、「営業戦略」であったり「特許戦略」であったり、「人的な問題」であったりする。

経営には2つの視点がある。
1つは、現状…現実からの視点である。
まずは目の前の売上、利益、資金繰りとかという極めて現実的な視点であり、これができないと会社は即、おかしくなる。
どんなに内部留保をため込んでも、一旦会社が傾き始めれば雪だるま式に資金は消えて行く。だから会社は、お金をため込んでいてもダメなのだ。
それでは何にお金を使うかというと、これが第2の視点に繋がって行く。

2つ目は、戦略であり「未来、将来のための布石」である。
そしてまずは「人」である。
但し「人」=従業員ということには必ずしもならない。
自分の会社の中で、将来この会社を担うであろう人にお金をかけることだ。
お金をかける=給料を上げることだけではない。
それは、その人物が伸びるであろう「学び」のためであったり、「設備投資」であったりする。
いうなれば「先行投資」ということだ。
そして次に「営業戦略」だ。
社長としては、様々なチャンネルを持つべきであり、そのチャンネルの中から、新しい世の中の動きを掴んだり、正しい本物の情報を得たりする必要がある。
我々中小は得てして「井の中の蛙」状態になってしまう。
付き合いが、どうしても同規模の社長とその周辺になってしまう。
それでも、その中から何かしらのコネクションを見出し、他の業界とか大企業の社長とか幹部とのコネクションを持つことが必要となる。
そして中小の社長の最大の仕事は、営業であろう。
「トップセールス」で、「ここっ!」という時は、担当に任せきりにせず、自分が出て行く必要がある。得意先の方も社長が出て来ることで、その会社の「本気度」を知ることができる。
「特許戦略」にしてもそうだ。
コイルの世界はモータの世界と一緒で、戦後、殆ど改革、革新がないまま推移してきた。
ようやく最近の「EVの波」に促され、「小型にして高効率なモータ」が必要となり、その余波で「高効率コイル=高密度コイル」の需要が生まれてきた。
いわば、開発してから20年近く経って、ようやく「セルコの技術」が採用されるようになり始めたのだ。
ここで、ただ「ウチの技術は凄いです」と言っていてもダメ。その技術を何らかの権利化し、それを守る体制を作っておく必要がある。
そして、有能な弁理士先生、実績のある弁護士先生に何かあったらお願いできる状態を作っておく必要がある。


さて、昨年は…と言うと、私の1番の思い出は「イギリス、リバプールのBeatle Week参加」だったであろう。
これこそ、自分の歳をすっかり忘れ、若者達に交じって20代の青春を謳歌した1週間だった。
耳を澄ませば、「いい年をして~」とか「好きだねぇー」とか色々な中傷ややっかみが聞こえてきそうだが、「行ったモン勝ち」、「やったモン勝ち」といったところか⁉
又、3年間コロナで封印されていた「大忘年会」も開催でき、1年間習い続けた玉置浩二の「メロディー」を歌ったこと、ビートルズ絡みは「ヘイ・ジュード」を大合唱できたこと、とにかく3時間のプログラムを時間ぴったりで終えることができたことで大満足だ。
政治の方は相変わらず「金の金による金のための政治」であり、「国民や国のための政治家不在」状態をどうにかしてもらいたいものだ。
私は以前このブログでも言っているが、とことん迄行ったときに、若者が立ち上がり、この国の政治を変えるという強力なパワーが出てこない限り、何も変わらないだろうと思っている。
又、戦争の問題も、武器商人や独裁政治がのさばっている間は、なかなか戦争は収まらない。人間は最終的には、「猿の惑星」のラストシーンのように、サルではなく人間(チャールトン・ヘストン)が核のボタンを押して地球を破壊する方向を取るしかないのかも知れない。
異常気象については、私は余りゼロカーボンだとかSDGsのような方向性は好きではない。恐らく地球は、何千年か何万年の周期で、温暖化、寒冷化を繰り返しており、今は温暖化の最中なのだと思う。
地震だ、噴火だ、気候変動だ…と、結局人間は自然を克服したと思っていても、何1つ防ぐことができていない。
「自然と共に生きる」ことが、人間の本当の『叡智』なのではないか?

そんなことをツラツラ思う、この年末年始であった。

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