新年に寄せて

また新しい年が来た

…と云うより「また新しい年を迎えられた」というべきか?

年末に腰を痛めて、昨年初めて会社を2日間休んだ。

痛む腰に身動きもできない寝床の中で考えた

人間は、ただ動けるだけでも幸せだ

生きているだけでも幸せなんだ・・・と

しかし、時間が経ち、身体の調子が戻ると、いつもの「あれも・・、これも・・」の悪い癖が出始める。

「そろそろ・・・」と考えるのも私であり、「まだまだ・・・」と思うのもこの私である。

あるきっかけがあり、この二つを両立させるために良い案を私は考えた

今年7月、セルコは50周年を迎える

この記念すべき時に社長を息子に譲り私は会長として私が今まで築き上げてきたもの、そしてまだまだやり残しているモノを息子と共に築き上げ、次の時代に繫げて行くべきではないか・・と。

このまま身体の調子さえ良ければ恐らく「生涯現役」を目指す私は、このままトコトン行ってしまうのではないか・・と思う。

トコトン行ってPPK( ピンピンコロリ)の私自身は良いかも知れないが、後に残った人達には多大な迷惑がかかるし、せっかく築き上げてきた土台が、千曲川の堤防のように崩れ落ちたら、会社は一溜まりもなくなることを考えると、逆に一刻も早く…と云う気にさえなる。

・・・ということで、社長の椅子を今年の株主総会時に息子に手渡し、以降は会長として、大所高所から軌道が外れてないかどうかを見て行くようにする。

また、まだやり残したことは現役の経営者としてきちっとやる。

…と云うことにしたのだ。

今後の会社目標も、10月に伊那食品工業へ息子と一泊研修に行った際に、奇しくも、私の今年度の精神目標として掲げた「みんなでしあわせになろうよ!」という言葉が塚越名誉顧問の口から出たことから、今後のセルコの会社目標はこの言葉にしようと息子と共に決めた。

”みんな”というのは、まずはもちろん従業員の幸せではあるが、結局大きく考えると、従業員の家族、取引先、得意先等、セルコに拘わる全ての人達の幸せと云うことになる。

まず自分たちが幸せになる為には、どうしたら良いか?

…これは、従業員全員が考えて、目標を持って頑張ってもらうしかない。

もう一つ、達成目標がある。

 それは「明るく 楽しく 健康的で ピカピカの職場を目指そう!」という、これはある年の目標が気に入って、これまでもずっと唱えてきた達成目標であるが、これに「楽しく」の一言を付け加えた目標だ。

それぞれの言葉の解説

 <明るく>

朝は一日の始まり

「おはよう!」、は大きな声で何度でも

声が飛び交う明るい職場

<楽しく>

みんなで旅行に行く

みんなでスポーツ大会をやる

みんなで忘年会やお祝いをする

みんなでお茶飲み会をする

<健康的>

規則正しく良い食事

みんなで掃除

しっかり体操

テキパキと仕事をして早く家に帰る

<ピカピカ>

みんなで整理、整頓、清掃する

いつもきれいに保つ

そんな職場からは不良な一つも出ない

そして、従業員は家族…と云うコンセプトを基に、下記のような「家族憲章」を作成した。

家族憲章

家族だから いつも一緒

喜びも 苦しみも 悩みも 楽しみも・・・・

家族だから いつも力を合わせる

助け合い 励まし合い いたわり合う

家族だから 話し合う

トコトン話し合い、悩みを聴き、話す

長所も短所もすべてがその人なのだから

否定をしないで良いところを伸ばそう

時には、叱ったり、叱られたりすることもあるし、

お互いが本音で喧嘩をしたりすることもあるが、

絆をもっともっと深めよう

家族なんだから

親が子の面倒を見る

お兄ちゃん、お姉ちゃんは弟や妹の面倒を見る

誕生日を祝い、結婚、出産を祝い、病気やけがの時も常に寄り添う

後には子が親の面倒を見る

家族なら当たり前

一人として落ちこぼれはいないし、出さない

全員、大事な 大事な 大事な家族だから

家族だから、お父さんが稼いだお金を、みんなで使う

お金の使い方も考える 無駄使いをしない

道具もピカピカで丁寧に使って長持ちさせる

大変な時はみんなで我慢

いい時はみんなで喜びを頒ち合う

みんなが幸せになれることを

みんなで考える

だって家族なんだから・・・。

ついでに「夢」の大切さを考える

<夢>

夢があるから

目標が生まれる

目標があるから計画する

計画があるから

実行する

実行するから

夢が実現できる

  そして・・・・幸福になれる

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ハードディズナイト・・・忙しい日々

先月終わりから先週金曜日迄、休みなしの忙しい日々を過ごした。
 11月26日、先般の「ものづくり大賞NAGANO」グランプリ受賞に伴う信越放送(SBC)の会社取材で、ほぼ丸一日、翌日「上海の車部品の展示会=オートメカニカ2018」に出展のため上海行き、12月1日迄、4日間の長い展示会、12月2日の日曜日に帰国、3日は2組の来客、4日は東京方面の得意先での打ち合わせ、5日、6日、7日と来客と、忘年会関係の打ち合わせ、準備で大童、8日は忘年会の準備とリハーサルで終日動き回り、9日は「第18回結いの里こもろ大忘年会」、打ち上げが終わるとクタクタ、翌10日は来客のラッシュ、11日こちらも来客、午後のお客は、ロケット部品のお客。
 翌日は始発で岡山へ向かい、その翌日は新規のお客で、大阪、京都と2軒寄って戻り、そして金曜日は、またしてもテレビ収録のため、長野のSBCの放送局へ行き、経済評論家の先生と対談形式の収録、ようやく昨日今日と3週間ぶりの休日となった。
 72歳のこの歳では一寸過酷なスケジュールであるが、今年は風邪もひかずに元気でやってきている。
 上海はひどかった。
 空気が汚い。
 気管支が弱い私は呼吸困難になりそうになった。
 また展示会の会場の混みようには閉口した。
 行きも帰りもメチャ人が多い、特に帰りは展示者と来場者が一緒くたに帰るため、わざわざすぐそこにある電車の改札からぐるーとトンデモナイ距離を大回りで歩かされて、一度に改札に群衆が押し寄せることを防ごうとしているが、その距離が生半可の距離では無い。隣の駅に歩いて行った方が近いぐらい長い距離であった。
 エスレ―ターなどにはいっぺんに寿司詰め状態に載るため、降りる時のタイミングが非常に難しいが、あちらの人達は難なくひょいひょい降りている。
 こんなに多くの人が乗り続けたらその内、壊れるんじゃーないか?と思ったが、果たして最終日は予想通りガタっと止まってしまった。
「エスカレーター、止まれば只の階段ダ!」
 Buzz Videoでやっていたが、中国でこれが滑り落ちて人が倒れて大騒ぎとなった映像があったが、私の方はただの階段になっただけで助かった。
 展示会そのものは、EV大国中国ということで、当社の展示品の中でも車のモーター関係に7~8割方関心が集まり、それもセグメントタイプといって、日本の大手が採用している方法の技術とか製造装置を売って欲しいという話が殆どであり、当社が得意としている巻線して圧縮するような話まで発展することは全く無いため、私尾は4日間詰めても殆ど出番が無かった。
 確かに中国はEV化が進んでいるとは思うが、目の前の課題解決が先決であり、いかに日本を始め海外の進んでいる国の技術を取り入れ、すばやく車を作り上げるか?が一番の課題であり、これから研究開発をしてじっくり次の時代の技術を探そう・・・というような意気込みは少なくともこの展示会からは感じられなかった。
 先端を行く要素技術はこの国では今は不要なのだ。
 この大変込み合って空気が悪く、その上期待した程の成果もあげられなかった状態の展示会に比べ、夜に出かけた上海タワーの川の周辺の景色は絶品だった。
 イルミネーションとライトアップのこの景色は大変美しく、夢の様な景色だ。
 正に中国の光と影ではないが、非常に文化的に素晴らしい面と、以前の東京を思わせる空気の汚さ、国際展示会と云うには強制労働者のように集団で相当の距離を歩かされる展示会、エレベ―ターが途中で停まってしまうような面が同居する発展途上の国であった。

第18回結いの里小諸大忘年会」
 私の1年の仕事以外のニコニコグループ、新老人の会のような様々な付き合い、またスタジオ関連の音楽関係の付き合いの総決算がこの忘年会である。
 特に、音楽関係は年々色んなミュージシャンとの付き合いが広く深くなって行き、だんだんこの忘年会が紅白歌合戦に出られるか?出たか?のようなイメージの状況となってきている。
 勿論、これは私のプロデュース、演出によって組み上げて行く。
 今年はこの演出がまた大当たりで最後の握手会で全員と握手して回るのだが、皆さん異口同音に「良かった!」、「最高!」、「素晴らしかった!」等々の声が上がった。
 私の出番は4曲歌い、1曲ジャズダンスを踊ったが、まぁまぁのできであった。
テレビ出演
「長野県ものづくり大賞」のグランプリを取ったということで、このところ新聞にはあちこち載り、ラジオに出る、テレビにも受賞ニュースを合わせると3回出ることになる。
 この一番の番組は暮れの29日の2時35分から3時迄の25分間であり、この会社収録とスタジオ収録があった。
 会社の方は私のインタビューの他、営業、開発の責任者のインタビューがあり、スタジオでは経済評論家の先生との対談形式で行われた。
 スタジオ収録は10年前のおやじロックバンドでNHKに立て続け3回出た時の3回目がスタジオで生出演した時以来の経験となる。
 あの時もそうだったが、この正味10分位の収録のために5~6人の人達が2時間以上かけて準備をする。
 メイクの人に一応顔を多少見れるようにと・・メイクしてもらう等、結構本格的な準備をする。
 でも、あの収録時の5,4,3,2・・・の時のちょっとした緊張感は何とも言えない快感ではある。

 仕事
 仕事の方は、あちこちから様々な試作の依頼が舞い込み、特にEV化の影響で、車のモーターの話が色々と出て来る。
 中国と違って、流石日本は当社の圧縮成型コイルにもかなり関心を持ってもらえる。
 この技術が世に出るか否かは当社にとっても大変大きなターニングポイントとなるため、来年は当然勝負の年となりそうだ。
 また当社のコイルは今、衛星用ロケット、「イプシロン」、「H2A」,{H2B},それから{H3}ロケットにも搭載されることになる。
 今ドラマで「下町ロケット」をやっているが、当社のコイルがないとロケットは飛ばないということになる。
 数が数で売り上げにはならないが、「コイル技術世界一」を目指す当社としては安全性、信頼性、高特性等々の証明として、これは大きなテコとなる。

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パナソニックのレッツノート~日本再生への道

日経ビジネスにパナソニックのレッツノートの記事が載っていた。
タイトルは「パソコンは未だ稼げる」
世界のパソコン市場のトップ3は、①中国レノボ・グループ、②米ヒューレット・パッカード、③米デルで、日本は、価格競争に負け、存在感は殆どない。
 そんな中でパナソニックが頑張っているという。
 神戸市のパナソニック神戸工場でレノボ・グループが年6000万台規模に対して、年100万台ではあるが、規模を追わず、顧客ニーズをきちっと捉え、効率を上げる工夫をしながら生産している。

 日本の家電は、ここ20年ほどの間に、殆ど中国や韓国、台湾に持って行かれてしまった。
 その一番の要因は、とにかく安さの追求=安く造って大量に販売することこそが、グローバル化に対応して生き残る道だと思ったからである。
 そこから、“メイド・イン・ジャパン”という考え方は自ずから消え去り、安ければどこで造ろうがOK・・・という考え方が蔓延した。
 日本のメーカーは中国の安い労働力を当てにして、我先に・・・と中国へ出て行った。
 そこで起こったことは、“自明の理”である。
 日本のモノ造り技術がドンドン中国に根付き、やがては中国で品質的にも変わらない製品が出来るようになってしまった。
 当然、巨額にして巨大な日本の本社組織を抱える日本は、中国とか韓国の身軽な企業と闘っても、コストでは勝てない。
 結局は、ただただ技術を教えて、仕事を取られてしまっただけなのだ。

 これまでの話は、誰もが知っている日本の家電市場喪失のストーリーかと思うが、以下に私の考え方を披露したい。

 日本のメーカーはバブル崩壊後、こぞって中国へ生産移管をしたが、これはすべきではなかった。
 ・・・というよりも、少なくとも日本に生産を残すべきであった。
 日本のモノ造りは、特に部品は、日本の中小零細企業が賄っていた。それもかなり精度の高い、優れものだった。
 良く”過剰品質“と言われるが、正に過剰品質で我々は部品を造っていた。
 なぜなら、メーカーがそれを望み、それが出来なければ、我々は生き残れなかったからだ。
 当社は、ドットプリンターのソレノイドコイルとそのアッセンブリ―がメインだったが、抵抗値の管理は非常に厳しく、12個いっぺんに巻く機械で、結構バラツキのある電線やボビンを使用しながらも、抵抗値をど真ん中に調整すべく、線の張り(テンション)の調整をしたり、巻の調整をしたり、涙ぐましい努力をして巻線をした。
 なぜなら、もしそのコイルに抵抗値の規格が外れたものがあったら、即得意先は即連絡してきて、工程に数量の余裕がなければ、否応なしに数人得意先に飛んで行って測定・選別、上手くして、全数返品で再検査、となるからだ。
 これもそのうちに、“社重”といって、得意先の受け入れ検査を無くす代わりに、全面保証・・・・というような、今から考えれば、無謀なことを下請けに背負わせていた。
 しかし当時の”下請け”は、とにかく得意先から言われるままであり、我々はその重圧から逃れるために、さらに管理を強化して、巻線し、検査し、もしも数値が真ん中から少しでも外れ始めると、即調整し、とにかく”ど真ん中“以外は製品じゃー無い・・・という位の管理をしていた。
 しかし今考えると、これが”メイド・イン・ジャパン“の正体だった。メイド・イン・ジャパンは過剰品質そのものだったのだ。

 それでは、各メーカーが中国や海外で自社で造った部品、或いは近隣の安い部品を購入して組み立てた製品は、果たしてどの程度のモノだったのだろうか?ということである。
 私が海外移管後、行ったあるメーカー(以前当社が巻いていた)では、この12本いっぺんに巻く巻線機のノズルを月に何十本も交換していると聴いた。
 一本確か当時6,7千円したノズルは、当社では1本曲げたり、折ったりしたら「始末書モノ」で大騒ぎしたものだったが、このメーカーは、機械の台数も多いかもしれないが、何十本もダメにしていた…すなわち、巻が乱れていることが容易に想像できるのである。
 巻が乱れていては抵抗値は間違いなくバラつく、プリンターの印字が日本の頃とは比べ物にならない位のレベルになっているはずである。
 これが、”メイド・イン・ジャパン“の消えた大きな要因なのである。

 現在、パナソニックが国内で今なお、もうとっくに消え失せたはずのパソコンを造っているということは驚きであった。
 ソニーから独立したVAIOの存在は知っており、私のパソコンはVAIOだが、まだパナソニックのパソコン生産が国内で生き残っており、それも採算が取れ、業績が伸びている…という事実は、多少日本のモノ造りに光明を与える事例かと思う。
 願わくば、その部品は国内製・・国内の中小零細メーカーのモノであれば、いうことは無いが、これは私には分からない。
 しかし、これが日本のこれからの向かうべき道の一つであることは間違いない。
 特に、パソコンとかの重要な製品は、日本の最高級のモノ造りで対応すべきである。最高の品質=我々中小零細が造るバラツキの無い優れた製品である。
 私は今は各個人にとって一番大事な“スマホ”は国内で、前部品国内調達で造るべきだと思う。最初は国内の少数派から始まり、やがては世界中のスマホは日本製になるのは間違いない。
 混ぜなら故障が殆ど無くなるからである。

 国内で造れば高い…というが、これから量さえあれば、いくらでも自動化、ロボット化が可能であり、その自動化、ロボット化も日本が世界で一番得意な分野である。
 自然エネルギー活用で電気代を極力カットして、オール自動で、大量に先校の品質の製品を造る・・・
“安くて品質ピカ一”、これが”メイド・イン・ジャッパン“の復活となる。

 すなわち日本再生につながるただ一つの道なのだ。

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