6月の株主総会後、7月1日より当社は新体制を敷いた。
現T.I.T. electoronics社の小林延守会長が当社の代表取締役会長となった。
私の兄でありセルコの創立者で元社長であることから、社長を辞めて、約20年ぶりにセルコの代表に返り咲いた・・・と言うことになる。
セルコはこの7月末で満45年を迎える。
45年前、延守会長は千葉工業大学の仲間3名と共にこのセルコを創立した。
最初は「馬屋で生まれたイエス・キリスト」ならぬ「廃バスの中に巻線機を持ち込んでの創業」で、夏になると暑くて仕事にならなかったという。
そのうちに、小諸市の東外れ、佐久平に近い現在の地に移ったが、ここは当時は狐か狸が出そうな僻地であったが、今は佐久に高速道路インター(佐久北インター:当社から車で約3分)、新幹線の駅(佐久平駅:同約7分)ができ、当社のすぐそばに取り付け道路が通ると共に周りに色んな商業施設が立ち並び5200坪の結構広い敷地は今や一等地になってしまった。
セルコは当時の信州精機(現セイコーエプソン)からドットヘッドのプリンターのコイルを受注し、これがこの会社のメインとなり、他に何も考えることなしに約20年の間、エプソンさんの完全下請として安定した仕事をし、最大で小諸、上田、丸子3工場120名に達したこともあった。
当時小林会長は、恐らく能力があり余っていたのであろう、このセルコの一社依存の仕事に飽き足らず、サンデンという会社のストーブとか未だ世の中に出たての自動販売機とかを売る販売店をやり、県内でもいち早く自動販売機のベンディング事業をする等、とにかく時代を先取りした仕事を好んで事業化していた。
その中で、当時パソコンが未だ出始めの頃に、上田市の駅前に「マイコンプラザ・上田」というパソコン教室を開き、NECのPC8000という当時の大ヒットのパソコンを使い、ベーシック言語を用いたプログラミングを教えながらパソコンを売り、またシステムのソフトを売る会社を作った。
この会社は現在は「テクニカル・イン・長野」という会社で、鈴木さんという社長が後を継ぎスポーツクラブや医療用のオリジナルパッケージソフトを開発し、顧客からも好評で、今は営々と会社を運営されている。
兄は、「先見の明」があった。
日本のバブル崩壊後、日本にはもう仕事は無いと、いち早くタイへの進出をした。
その過程で、当時健在だった父と私と意見が合わずセルコを辞め、タイのコイルの新会社を息子と共にゼロから立ち上げたが、日本とは違い仕事は間違いなくあった。
しかし当時のタイは、未だインフラ面を始め、様々な面で”後進国”そのものであり、相当の苦労の果てに現在のような大変効率が良く理想的な工場を構築していった。
その間、私の方も苦労した。
とにかく仕事がなかった。
しかしこの会社は「技術力」だけを頼りに、現在どうにか20年前の売上レベルまで戻すに至った。
今、その中核を為す生産がTIT社である。
今後、セルコとTIT社は一体化を目指す。
セルコは「営業」と「開発」・・・と言うよりは試作中心の会社とし、大量量産品はタイのTIT社に任せる。
これまで、「セルコは技術力はあるけども、量産体制に難が・・・」と云われていたかと思うが、ここにタイにおける立派な量産工場を得ることができたのである。
TIT社も今後、日本で最先端開発品の量産コイルの生産拠点となる訳であり、この2社を併せ、強力な試作から量産へのリレーインフラが整ったのである。
なお、当社には大連工場があり、こちらは数量が少ないがかなり難易度が高いコイルから組立品を手掛け、本当に僅かな多品種少量品は日本の社内で展開する。
勿論、国内で自動化・・という手も当然考えられる。
セルコは今や本当の意味での「コイル及びコイル周辺Assyのソリューションパートナー」になりつつある、