下町ロケット・・・池井戸 潤

 TBSのテレビドラマ「半沢直樹」が大ヒットした。ここで、この原作者池井戸潤氏が書いた直木賞受賞作品「下町ロケット」という本を紹介しておきたい。

 これは、ある人と半沢直樹の話をしていた時、「社長は池井戸さんの『下町ロケット』という本を読みましたか?あの本に書かれている会社は御社とそっくり、御社そのものですヨ」と言われ、基本的にフィクションモノは読まない私だったが、即、この本を買った。

 その内容は、言われる通り技術力を盾に大企業と渡り合っている当社を誇張して描いたようなストーリーであり面白くって一気に読んだ。

 主人公は東京大田区にある従業員200名位の小型エンジンを造る佃製作所という町工場の佃社長。この会社は、技術にこだわりを持ち、誇りを持って営業しているが、ある日、大手のメーカー、ナカシマ工業から90億円の特許侵害で訴えられる。

 世の中は、有名大手のナカシマ工業がちっぽけな町工場を訴えたとなると、どう見ても大きい方が“正統・有利”、小さい方は“不当・不利”という見方をする。

 案の定、メイン得意先の一社より内製化による発注打ち切りにあい、資金繰りに困りメインバンクに融資の相談に行くと、この訴訟問題が大きな障害となり、融資を断られてしまう。

 そこへまた、大手のロケットを手掛ける帝国重工より、別途にこの社長が手掛け開発したロケット用の水素エンジンの特許を売ってくれとのオファーが来る。

 当然、この帝国重工はこの佃製作所の苦境を知って、この隙に安く買い叩こう・・という魂胆である。

 ところが、色んな展開の末、結局この佃製作所はナカシマ工業に対し逆提訴、それに勝訴し逆に50億円を超す和解金を得ることになってしまった。

 それまで、融資を渋っていたメイン銀行の支店長が飛んできたが佃社長はこの銀行に対し「取引停止」を言い渡す。

 帝国重工はなかなか特許の売りも、特許の使用契約にも同意しない佃製作所に、結局この水素エンジンを造らせるべく監査をすることとなった。

その監査の当日の場面が面白い。

 この帝国重工の監査人は、最初からこの会社を監査で振り落とそうとの意向があるため、現行赤字状態を責めたり、様々な荒探しをする中で、訴えて逆敗訴したナカシマ工業が造ったシリンダーと佃製作所製のシリンダーの性能比べをする場面がある。

 最初に試したシリンダーは完璧であり、もう一つの方は60点と監査員が点を付けた。

 当然、最初の製品がナカシマ工業で後が佃製作所のモノと思っていた監査員に佃の社員が言う。「最初のがウチのシリンダーで、次のモノはナカシマ工業製です」

 私が、今までに言ってきたことが、フィクションではあるが見事に書かれている。

 大企業は、よーいドンで同じものを造ったら、絶対的に自分の方のモノが優れていると思っているが、実は、機械設備も劣り、学歴も劣る中小零細のモノ造りの方が優れていることが多いのである。

また、大企業にとっては中小零細の技術、ノウハウは“只”。

 だからナカシマ工業のように、先を越された特許に対し、金と大企業の総合力で佃製作所を押しつぶしてやろうという考えが浮かぶ。

 この物語は小説だから逆提訴して逆に和解金をせしめたが、通常はそうはいかない。特許があろうが無かろうが、特殊技術があろうが無かろうが、自分の欲しい技術は、あらゆる手を尽くして手に入れるのが日本のメーカー。

 その際、金を払って話を付ける・・・という選択肢はよっぽどのことでなければ取らない。

 これはこの帝国重工の逸話を見ても分かるかと思う。

 社長命令で、全て自社の技術で賄うという大原則に立ちはだかったのが、この佃製作所の特許技術。この特許技術を避けて開発するとなると時間がかかり とても無理、①佃からの特許の購入、②特許の借り入れ、③当該部品の購入・・・という選択肢の中で結局は佃製作所の粘り勝ちで③の選択となった・・というストーリーであるが、このような大企業にとって”最悪の事態“となるまでの帝国重工内での葛藤は、”さもありなン”と思わせるような場面がふんだんに登場した。

 モノ造りは、一般的に大きい会社は全てにおいて上・・・ましてや製品の品質に関しては会社の“大きさに比例する”と思っている向きもあろうかと思うが、現実は異なり、この物語の通りなのだ。

 総合力ではとてもかなわないが、その部分、部分、製品の部品一点一点であれば、間違いなく町工場=中小零細のモノ造りが勝るかと思う。

 だから大企業は、素直にこれを認め、中小零細をきちっと一個の企業と見做し、対価を払い、強力なパートナーとして部品を発注すべきなのだ。

 コマツ製作所のように、協力工場との固い絆が構築されていれば、それこそ湯水のような様々なアイデアが出てきて、カイゼン、改革がドンドン進み、たちまち製品毎に”最高品質“を目指すことも可能となること請け合いである。

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イプシロン打ち上げ成功!

以前は、毎回失敗していた日本製のH2ロケットは最近20回連続、打ち上げに成功している。

これらの部品も、結構中小零細が請け負っているが、以前は、この部分はこうしないと良くない・・と指摘しても、「設計図通りやればよい!」と一喝され、全く聴く耳を持たなかったと聞く。

 最近は、当社でも、ロケットや衛星のコイルを請け負っており、結構我々の意見も通るようにはなっているかと思うが、基本は依然“これまで実績のある造り方”が基本となっており、結構がんじがらめの部分もある。

 もっと安くて、いいものを造るのであれば、もっと我々の意見を取り入れるべきであると思う。 

9月14日、JAXAはイプシロンロケットの打ち上げに成功した。

 このロケットには当社の高密度コイルが使われており、もう何年も前から、いつかいつか?と心待ちにしていたのが、ようやく私もブログに書き込めるようになった。

 先月末に打ち上げられる予定が伸びたため、なおさら今回はうれしい! 

日本経済新聞社の記事より見てみよう。 

宇宙産業、海外開拓へ イプシロン打ち上げ ~新興国向け「安さ」競う
    国産小型ロケット「イプシロン」の打ち上げが14日成功し、惑星観測衛星を予定の軌道に乗せた。小型衛星を安く打ち上げられる新型ロケットの実績を手にし、国内宇宙関連メーカーの目は本格的に海外市場の開拓に向く。新興国の衛星打ち上げ需要を取り込み、官需依存からの脱却をめざす。「独り立ち」に向け、スタート点に立った。  

IHIエアロスペースはイプシロンの生産を担う(群馬県富岡市)=JAXA/JOE NISHIZAWA提供

     イプシロンは宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発し、IHIエアロスペース(東京・江東)が生産。先端部で衛星を覆う「フェアリング」は川崎重工業、計測通信系機器はNEC、ガスジェット装置を三菱重工業が納入するなど、ほぼ純国産といっていい。

     日本の宇宙関連産業の2012年度の売上高は2800億円規模とみられ、世界シェアは数%。売り上げのほとんどを政府が支える構造だ。政府は今年1月に決定した今後5年の「宇宙基本計画」で民間需要と海外需要の取り込みを明記し、イプシロンをその主力ロケットと位置付けている。

     ロケットの競争力を左右する大きな要素は打ち上げコストだ。イプシロンの場合、今回の初号機こそ53億円だが、2号機以降は38億円、量産に入る17年以降は30億円以下をめざす。

     初号機はいわば「安全運転のロケット」(木内重基IHIエアロ社長)で、既にロケットに搭載実績がある素材や部品を多く使った。これらを機能性が高い先端素材に置き換えていけば「性能と価格の両方を改善できる」(木内氏)という。

     科学観測や防災などに使う小型衛星の需要はアジアの新興国を中心に伸びると予想される。だが米国や欧州、ロシア、中国、インドがしのぎを削る世界の商業衛星打ち上げ市場で勝ち抜くのは容易でない。

     商業ロケット最大手の欧州アリアンスペースが昨年、打ち上げ能力を小型衛星向けに1.5トンに抑えたロケット「ベガ」を投入するなど、既に顧客獲得競争は始まっている。ロシアは弾道ミサイルを転用したロケットで打ち上げコストを大幅に抑えている。

     ロケットだけでなく、搭載する小型衛星も新興国に売り込みたいというのが日本勢の思惑だ。イプシロンが今回運んだ衛星はNEC製。惑星を観測するための宇宙望遠鏡は住友重機械工業が生産した。IHIは昨年、超小型衛星や衛星搭載カメラなどを生産する明星電気を買収。ロケットと衛星の両方を手掛ける「総合メーカー」をめざす。

     日本の宇宙産業は今回のイプシロンの打ち上げ成功で、名実ともに国際競争に参加する切符を手に入れた。新興国が宇宙利用を本格化させる初期の段階で新興国に食い込めば、三菱重工や三菱電機が手がける大型のロケット・衛星でも案件を獲得しやすくなる効果が見込める。

     イプシロンの打ち上げを現地で見守ったIHIの斎藤保社長は「日本の航空宇宙事業の『産業化』に力を尽くす」と語った。日本の宇宙ビジネスが思い描く「成長軌道」に乗れるかどうか、正念場はこれからだ。

このロケットは、「日本の宇宙開発の父」と呼ばれ、小惑星探査機「はやぶさ」が行った惑星「イトカワ」の名前となった糸川英夫博士が1955年に発射したペンシルロケットの流れを汲む日本独自の固体燃料ロケットとのこと。

このロケットは、最新のIT技術を駆使し、コストを大幅に削減し「ロケットの世界に革命をもたらす」と言われ、将来の世界標準になる可能性があると注目されている。

このロケットは人工知能を備え、打ち上げ前の点検を自ら全自動でし、準備完了を知らせるため、従来は100名程の作業員が必要だったのが、ノートパソコンでたったの数人でできる等、小型軽量、大きさもコストも従来のロケットの半分。

コストは、これまでの100億円に対し、今回は53億円、次は38億円と約1/3になり、更にコストダウンが可能。

宇宙関連の産業もこのイプシロン打ち上げ成功により、これからの日本は世界をリードする可能性がある。

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ホームページのリニューアル

当社のホームページがリニューアルしている。
出来るだけ、ページの追加や修正ができるように・・・との機能的な面と、これからの当社の方向付けを示したホームページとなっている。
このホームページ最大のコンセㇷ゚トとは、「高密度コイルの量産化」だ。
高密度コイルは、ここに来て、様々なメーカーが注目し始めてきている。
各メーカーが、モーターの追求をして、結局最後に辿りつくのが、コイルの“巻き”の問題なのだ。
これまで、コイルは決められた径の電線を決められた数巻けば、それでいい・・ということで、巻きについては、「乱巻よりは順整列巻き、できれば整列巻き」という位で、それほど重要視されず、とにかく安く造ることに多くの関心があった。
私は、この高密度コイルについては、当社が特許を出した8年前から、必ずや最終的には、コイルは高密度か、それに準じた巻線が必要な時代が来る・・・と思った。
それ以降、広告やブログでは、ずーっと言い続けてきたが、なかなか世の中の”安さ“追求の波には勝てずに、数社の理解を得ただけで、ここまで来てしまった。
しかし、ここに来てようやく有力メーカーさん数社から、同時多発的にこの高密度コイルを使って究極のモーターを狙いたい・・・というようなオファーが来ている。

今回のホームページでは、この高密度コイルはタイでも中国でも造りますヨ、そして国内は自動化を考えますヨ!というコンセプトです。

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北海道旅行

 友人の宗本禎之夫妻が、20年かけて登り続けていた日本百名山登頂の最後の一つ、日高山脈の主峰、北海道難易度ナンバーワンの幌尻岳(2052m)に登るという。

 これを、宗本さんを私に紹介してくれた札幌在住の友人平塚英孝君が、「百名山登頂のお祝い」をしようと言い出した。

 もちろん、失敗した場合は、「残念会」に変わるのであるが、昨年も、彼等はこの山に挑戦し、前日の雨で、20ケ所もある川を渡れずに断念していたから、失敗の可能性は十分あるのだが、我々は、百名山達成の祝賀会参加・・・ということで、便乗旅行を決め込んだ。

 私の奥さんに手続きを頼み、結局、3泊4日の北海道の旅をすることになった。

 行きは羽田から旭川に飛び、レンタカーを借り、まずは、かの有名な旭山動物園へ行った。

 動物園がいくら面白いと言っても、まぁそれなりであろうとタカをくくっていたが、これが、結構面白い。

最初にアシカの水族館へ行ったが、これが、うまくできており、アシカが結構細いガラスの管の中を見ている我々の目の前を白い大きなお腹を見せながら、行き来する様は、なかなか面白いし、端においてある複雑な形状のテトラポットのコンクリートの隙間を一回転しながら、得意そうに泳ぐ様は、見ていて飽きない。

 餌やりを「もぐもぐタイム」と言って、係の人が、アシカの説明をしながら餌をやるのが、またなかなか面白い。

 なんの魚か忘れたが、エラの方向性がエラくキツイ魚は、のどにツカエルことを知っていて、いくら逆に口に持って行こうが、必ず、頭の方からにクワえ直して飲み込むとか、陸と水の中では、全く動きの速さが違う様など、圧巻である。

ペンギンはエサを食べると、自分の子供にエサをやるため、集団でヨチヨチ並んで歩く姿が皇帝ペンギンの映画のようで印象的であった。

白熊は、通常ただ寝ているだけかと思ったら、ここの白熊は常に動き回っていて、2頭しかいないのに、あちこちに表れて、何頭もいるように見えた。

 携帯で、近づいたところを撮ろうとしても、動くのが早すぎて携帯のカメラではシャッターのタイミングが合わず、顔を映してもお尻とか、何も映ってなかったりした。

面白い時間はすぐに過ぎる。

 5時半に大雪山の麓の「ラビスタ大雪山」というホテル迄行かなければならない。
北海道の道は、まっすぐだ。
 ところが、特に県外車は交通違反で捕まる率が高いということで、結構ゆっくり目に走っていたが、動物園でちょっと時間がかかり、ナビで到着時間が6時と出たため、山道でもあり、ちょっとばかりスピードを出した。
 これは、後ほど、我々の車はレンタカーであり、レンタカーは結構おまわりさんも大目に見ているらしいということであったが、車がほとんど走ってない道路を快適なドライブで、結局6時到着予定が、5時15分には着いた。
5時半からの食事は、豪華なコース料理であった。
北海道の料理…特に魚類、野菜類、そしてお米もおいしい。
夜は、サービスのカクテルをバーで奥さんと一杯づつ飲んで、早々に眠りについた。
 朝は、団体も入っていて込みそうだったため、6時のオープンと同時にバイキング会場で食べた。
 案の定、レストランを出る頃には、歩くのも困難になるほど、人が増えた。
この日は、富良野、美瑛地区をドライブしようということで、まずは富良野へ向かった。
 まずはフラワーガーデンの発祥の地ということで、「ファーム富田」へ行く。
 このあたり周辺は丘陵が多く、ちょうどこの花畑が一望できて壮観だった。
 今年の夏はエラく暑いが、この地は風も結構強く吹き、半そででは寒かった。
 紫のハーブ園がメインであるが、色とりどりの花々が咲き競い、素晴らしい光景が目の前に広がる。

 映画「風のガーデン」のロケ地はプリンスホテルの敷地内にあり、有料500円で入場者70万人突破と書いてあり、もう少しロケ時の写真とか、解説とかしてあるかと思ったら、な~んにもなかった。
 そこから、美瑛方面へ車を走らせ、四季彩の丘で花畑の中をトラクターが牽引するバスに乗って見学、拓真館は二人の写真家のこの周辺のきれいな写真が満載、そこで売っていたビデオを買ってきた。  

青い池は紺色とかでは無く本当に青い色の池、白髭の瀧は軽井沢の白糸の滝を思わせる地中から流れ出る瀧で、向かいの橋の上から見た。不動の滝の滝はちょっと奥まった場所にあったが、霊験あらたかな滝で、周りにお地蔵さんや仏さん等の石像が沢山あった。ケントメリーの木は、丘の上にぽつんとポプラの木が立っており、よく見ると二手に分かれているため、ケンとメリーの二人なのか?と勝手に想像したりした。

 その晩は、旭川駅前でレンタカーを返し、近くのホテルに宿泊、次の日は、旭川に住んでいる平塚君の元会社の同僚の小岩さんという方と待ち合わせて、9時発の札幌行きの特急電車に乗った。
 10時20分に札幌到着、平塚君の奥さんが迎えに来ており、そのまま彼の車で、「トリトン」というクルクル回転寿司屋さんへ向かった。
 トリトンにはすでに100名山を登頂した宗本夫妻が待っていた。
 このトリトンという回転寿司は、生半可な店ではなく、11時回転と同時に、結構広い店が、あっという間に埋まってしまい、12時から1時頃は、かなり待たないと座れないという。
 ・・・ということで、11時前に我々は一番乗りで並んだわけである。
 6人掛けのボックス席に7人が座り、その夜の「祝賀会」の前に、お茶で乾杯してまず第一回目の「100名山登頂達成祝い」をした。

さて、そのお寿司の味であるが、これが絶品!

 帆立を口に入れたら、普通よりも少し大き目な帆立が、口の中でトロリと溶けるようなイメージ、何を食べても皆おいしい!
 結局、メタボ防止の食事制限は一時休止で、これ以上はもう・・・というところまで食べたが、代金は一人頭1400円ということで、これまたびっくり!
 帰りの新千歳空港で、時間がなく「駅弁」ならぬ「空弁」という飛行機の中で食べるお弁当を買ったが、具の質も量も劣っていて、1680円であったため、このトリトンの旨さと、安さは、生半可ではなかったということだ。
ホテルのチェックインまでにはちょっと時間があるため、羊が丘展望台へ行き、クラーク博士像の前でみんなで写真を撮ったり、宗本夫妻が他の友達からもらってきた「100名山達成祝いのケーキ」カットをしたりして過ごした。

 夜は、イタリア人が経営するレストラン「ベネチアーノ」で、ワインで乾杯する本格的な祝賀会を行った。
 昔話に花が咲き、18年前に出会った頃、私に最初にEMを紹介したのがこの宗本さんであり、また当社が経営困難に陥り、私の精神状態もメロメロになっていた時、今まで、何度も死地をさまよい、一文無しになりながらも、持ち前の前向きプラス発想で乗り切ってきたこの宗本さんに言われた「小林さん!大丈夫よ、どうにかなるよ!」の一言が、どれほど私の心に響き、励まされたかを考えると、私の命も会社も救ってもらった…という話になり、人生の大恩人ということになった。

 次の日は、我々は小樽を見て、新千歳空港から帰るということで、皆さんとは別れた。
小樽では、人力車のお兄さんの口車に乗って、人力車に乗った。

 人力車も楽でいいが、それよりこのお兄さんのガイドがいい。
 小樽は、明治時代、近海でニシンがメチャ取れ、この小樽は函館と共に北海道の玄関口として隆盛を誇り、大正時代には海岸を埋め立てて大型船からハシケを使った荷物運搬用の運河が作られたり、立派で大きな倉庫が作られたとのこと。
 隆盛を誇るこの小樽は、北のウォール街と呼ばれ、日本銀行、三井銀行、拓殖銀行などが、軒並み石造りの立派な建築物を建て、今現在は、その名残で、倉庫や銀行跡が、レストランや、土産物屋として残っている。
 戦後、海運から陸送への変遷の中で衰退し、各倉庫は、最後はこれを壊すお金もなく、そのまま放置され、運河も、埋め立ての運命にあったが、住民の反対運動で半分位残って、これらの隆盛時の残骸が、小樽の一番の観光スポットになったのだという、歴史の皮肉である。
 運河を前にして、「今日は、いい人力車のお兄さんに巡り合って“運河いい!(運がいい)”」とリップサービスをしたら、大分喜んでいた。

帰りは、小樽から新千歳空港行きの電車で向かい、無事羽田に到着し、家に帰った。

今回の旅行は、だだっ広い北海道の旅にしては、密度が濃く、内容も充実していて、大変面白かった。
この次は、会社の社員旅行で、あのきれいなフラワーガーデンをみんなに見せてあげたい。

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