一面トップにセルコの記事が載る

4月14日、日曜日の「信濃毎日新聞」に当社の記事が載るということで、定例のテレビ体操をしていた私は、新聞を持ってきた女房に「セルコの記事が載っているから探して」・・・と声をかけた。
ところが、女房は一向に記事を探す様子がない。
最近耳が遠くなってきたから聞こえないかと思い、更に声を張り上げたがそのまま新聞の一面を読んでいる。

体操を終えて、その意味が分かった。
セルコの記事が一面トップに載っていたのだった。

かつて当社がまだ低迷していた頃、低迷している割には結構、新聞、雑誌、テレビ等のメディアに出る機会が多かった。
この長野県でダントツに読まれている通称“信毎”と呼ばれているこの新聞には、やれ円高だ、やれリーマンショックだ・・・と何か世の中の変化がある毎に当社は、中小零細の零細代表のような会社としてよく取材されたものだった。

今回の内容は、小さな会社の「賃上げ」に関する記事で、その代表として当社が選ばれたにすぎないが、さすがにこの新聞のトップページに写真入りで載るというのは今までなかった。

地域社会的には『快挙』である。

息子が社長になって経営者としてどうか?の不安もあったが、まさに「社長」という職責・立場が人を育てる。
中小の社長が集う「経営塾」に通い、同年代の社長たちと情報交換(悩み相談?)を行いながら、経営者としての勉強を積極的にし、かなり急速にその感覚を磨いてきつつある。
私は長年、我が子のようなこの会社を守るために必死でやってきたため、息子がやっていることについつい口を出してしまい、それが息子にとって煩わしくなってきたようだ。
そこで、私は一定の条件を出して、今後は「一切セルコの経営には口を出さない」ということにした。
ただ、「意見を求められれば幾らでも応じるよ!」と言ってある。
そんな中での今回の新聞記事である。
世の中的にもこれで立派な「セルコの社長」ということではないか?

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年末、年始に当たり

あっという間に年末年始が過ぎ、また1つ歳をとる…と書いたが、先般読んだ本に、いつまでも脳を衰えさせないための一つに、「自分が歳をとった」とか「歳だから…」というような言葉を使わないこと…というのがあったため、私もこれからは余り自分の歳のことは言わず、むしろ歳を忘れ、自分の体力、能力に応じた計画とか行動をすることにしようと思う。

年の初めに大きな地震。
家に居た私は、かなりの揺れとその長さに2011年3月11日の東日本大震災を思い出した。(9.11とか今回の1月1日とか、災害や大きな事件はゾロ目が好きなのか?)
即、テレビを点けると、今度は石川県能登半島だった。
テレビは前回の件があるため、「津波に注意!直ぐに逃げてください!」と大声で呼びかける。これまでは確か「火の元を確認して!」というのが定番だったが、今回はひたすら「津波、津波」だった。
しかし結果的に今回は、津波の被害よりも、倒壊、火災、土砂崩れの被害が多かったようだ。
私はこのような事態の場合、即、自衛隊の出番だと思った。
状況が分からない…ということがあり、直ぐに決断をするわけには行かないと思うかもしれないが、私は直感的に「とりあえず行動」が必要だと思った。
大分昔に、写真撮影旅行で能登半島一周の旅をしており、あの入り組んだ地形ではかなり大変だろうと思っていたら案の定、道路が寸断され、孤立状態の集落が沢山出た。
それこそ、自衛隊がいち早く駆け付け、ヘリコプターやドローンを飛ばし状況確認をし、対応できるところは対応すれば、亡くなった人の何人かでも助かった可能性がある。
結構強い余震があり、ここはとても民間、一般のボランティアの出番ではなかった。

私は以前から、日本の自衛隊は「災害救助隊」という名称に変更し、様々な災害時の救助、救援、救出のレスキュープロフェッショナルとなり、そのための特殊車両から重機、ロボット等の専用の機械や道具を開発し、救援物資も即輸送できるよう常に準備しておくような態勢を取ったらどうか?と思っている。そして、日本国内は勿論、海外のいかなる国へも行く用意があるということを世界に発表し実行したら、日本は世界から絶賛される国になるのではないかと思う。
勿論、普通の国は他の国の援助要請を受けにくいだろうと思うが、まずは受け入れる国から実績を積めば、そのうちに、その国の災害にあった国民が、「日本の災害救助隊を呼んでくれ!」という話に徐々にでもなるのではないかと思う。
このように人を殺すのではなく、人を助けるための組織であれば、どんな国でも日本をリスぺクトし、もし日本を襲う国があれば、世界中を敵に回すことになり、結果的に「日本防衛」の「自衛隊」になるのではないか?と思う。

また翌2日の羽田空港での日航機と自衛隊機の接触炎上事故も衝撃的だった。
亡くなった5名の自衛官はお気の毒だったが、日航機の乗員、乗客379名全員が無事だったというニュースは凄かった。
乗客の撮った動画がテレビで流れたが、あの煙が充満してくる中、CAの「席を立たないでください!」、「バッグを下ろさないでください!」という注意をみんなが守り、結果的に全員が飛行機を降りることができたという事実は、これがもし海外のどこかで起きたのだとしたら、果たして乗客はこのような冷静な行動をとっただろうか?と思ってしまう。
そのCAも、全員が昨年4月から勤務を始めた新人だったとのことで、これもまたびっくりした。
又、機長が最後の最後、残された乗客がいないか、機内を端から端まで確認してから脱出した姿は素晴らしく、まるで映画の1シーンのように格好良かった。

セルコのことをいうと、後継社長(息子)が大分しっかりしてきており、あまり口を出すこともなくなってきたように思える。最も、私と全く同じかと言えばそれは違うため、会議で私が口を出すともめることになるので、今後は出来るだけ引っ込んでいる方が良いか…と思う。
ただ、最近は業績的にいうと、築き上げてきた5本、6本の柱がちょっと揺らぎ始め、続く6本、7本目の柱が未だきちっと台頭して来ておらず、これまでのような「飛ぶ鳥を落とす勢い」状態ではなくなってきたことで、社長も「金融引き締め状態」に入っているように思える。
しかし、ほんの8~9年前までのセルコは、借金を背負いながら地の底を這うような状態で、いつ経理から「社長、来週火曜日に手形が落ちません」と言われるか分からないようなことが日常だった。その時と比べると、「天国」のような状態なのだが、その時はその時で今は今ということか?
ただ、今の社長は現状の対応に問題はないが、「将来飛躍するための準備」とか「そのための心構え」にちょっと難点があるように思える。
それは具体的にいうと、「営業戦略」であったり「特許戦略」であったり、「人的な問題」であったりする。

経営には2つの視点がある。
1つは、現状…現実からの視点である。
まずは目の前の売上、利益、資金繰りとかという極めて現実的な視点であり、これができないと会社は即、おかしくなる。
どんなに内部留保をため込んでも、一旦会社が傾き始めれば雪だるま式に資金は消えて行く。だから会社は、お金をため込んでいてもダメなのだ。
それでは何にお金を使うかというと、これが第2の視点に繋がって行く。

2つ目は、戦略であり「未来、将来のための布石」である。
そしてまずは「人」である。
但し「人」=従業員ということには必ずしもならない。
自分の会社の中で、将来この会社を担うであろう人にお金をかけることだ。
お金をかける=給料を上げることだけではない。
それは、その人物が伸びるであろう「学び」のためであったり、「設備投資」であったりする。
いうなれば「先行投資」ということだ。
そして次に「営業戦略」だ。
社長としては、様々なチャンネルを持つべきであり、そのチャンネルの中から、新しい世の中の動きを掴んだり、正しい本物の情報を得たりする必要がある。
我々中小は得てして「井の中の蛙」状態になってしまう。
付き合いが、どうしても同規模の社長とその周辺になってしまう。
それでも、その中から何かしらのコネクションを見出し、他の業界とか大企業の社長とか幹部とのコネクションを持つことが必要となる。
そして中小の社長の最大の仕事は、営業であろう。
「トップセールス」で、「ここっ!」という時は、担当に任せきりにせず、自分が出て行く必要がある。得意先の方も社長が出て来ることで、その会社の「本気度」を知ることができる。
「特許戦略」にしてもそうだ。
コイルの世界はモータの世界と一緒で、戦後、殆ど改革、革新がないまま推移してきた。
ようやく最近の「EVの波」に促され、「小型にして高効率なモータ」が必要となり、その余波で「高効率コイル=高密度コイル」の需要が生まれてきた。
いわば、開発してから20年近く経って、ようやく「セルコの技術」が採用されるようになり始めたのだ。
ここで、ただ「ウチの技術は凄いです」と言っていてもダメ。その技術を何らかの権利化し、それを守る体制を作っておく必要がある。
そして、有能な弁理士先生、実績のある弁護士先生に何かあったらお願いできる状態を作っておく必要がある。


さて、昨年は…と言うと、私の1番の思い出は「イギリス、リバプールのBeatle Week参加」だったであろう。
これこそ、自分の歳をすっかり忘れ、若者達に交じって20代の青春を謳歌した1週間だった。
耳を澄ませば、「いい年をして~」とか「好きだねぇー」とか色々な中傷ややっかみが聞こえてきそうだが、「行ったモン勝ち」、「やったモン勝ち」といったところか⁉
又、3年間コロナで封印されていた「大忘年会」も開催でき、1年間習い続けた玉置浩二の「メロディー」を歌ったこと、ビートルズ絡みは「ヘイ・ジュード」を大合唱できたこと、とにかく3時間のプログラムを時間ぴったりで終えることができたことで大満足だ。
政治の方は相変わらず「金の金による金のための政治」であり、「国民や国のための政治家不在」状態をどうにかしてもらいたいものだ。
私は以前このブログでも言っているが、とことん迄行ったときに、若者が立ち上がり、この国の政治を変えるという強力なパワーが出てこない限り、何も変わらないだろうと思っている。
又、戦争の問題も、武器商人や独裁政治がのさばっている間は、なかなか戦争は収まらない。人間は最終的には、「猿の惑星」のラストシーンのように、サルではなく人間(チャールトン・ヘストン)が核のボタンを押して地球を破壊する方向を取るしかないのかも知れない。
異常気象については、私は余りゼロカーボンだとかSDGsのような方向性は好きではない。恐らく地球は、何千年か何万年の周期で、温暖化、寒冷化を繰り返しており、今は温暖化の最中なのだと思う。
地震だ、噴火だ、気候変動だ…と、結局人間は自然を克服したと思っていても、何1つ防ぐことができていない。
「自然と共に生きる」ことが、人間の本当の『叡智』なのではないか?

そんなことをツラツラ思う、この年末年始であった。

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ビートルズを論ずる

プロローグ
私は18歳の一番多感な時期にビートルズというグループを知り、ちょうど受験勉強の頃で家に缶詰状態になって得意の詰め込み勉強をしていた。
その時に、松本の本屋(当時、レコードも扱っていた)に嫁いでいた私の姉から、1枚のレコードを貰った。
“Meet The Beatles”という4人の顔が半分陰になっている有名なジャケットのレコードだ。
このレコードを勉強が飽きると聴いた。
1日に何回聴いたか分からないが、これを受験の時まで4、5ヶ月続けた。
英語の歌詞は全て単語を調べ、自分なりに曲の中で歌っている内容を把握し、段々一緒に歌うようになった。
この中の単語が受験の時に出て来て助かった思い出もある。
レコードは余りにも頻繁に聴いたため、盤が擦り切れ針を置くとザーというノイズがかなり大きく出るようになった。
しかし、この彼ら曲は次第に私を虜にしていった。

ビートルズの最初
それまで私はFEN(Far East Network=極東放送)で、アメリカのビルボード誌とかキャッシュボックス誌のミュージックベストテンの番組を毎週チェックしており、日本で流行る1、2ヶ月前には何回も聴いていた。

サーチャーズというグループの“ラブ・ポーション  No.9”という曲がアメリカで流行り、これはいいとレコードの発売を待っていたら、ラジオでこの曲が「恋の特効薬」という日本語のタイトルがついたことを知った私はレコード屋へ飛んで行き、「恋の特効薬ありますか?」と尋ねたら、女性の店員達が皆口を押えてクスクス笑い出した。
・・・早すぎて、未だこの田舎のレコード店には入荷してなかったのだ。

しかしそれから1ヶ月も経たないうちにこの曲は日本でヒットしトップとなった。
私がビートルズを知ったのは、FENチェックをしている時に、それまでアメリカ以外の曲は殆どランク入りしたことがなく、坂本九さんの「上を向いて歩こう」がスキヤキソングとしてこの2誌の1位に輝いた時にとてつもなく偉大なことをしたと思っていたのだが、ある時ランキングの1位から5位までがイギリスの今まで聴いたこともないビートル=カブトムシのような名前のグループになった時である。
そしてこの時点では曲の良し悪しとかは全く関係なく、ただただこの1位~5位独占ということに圧倒された。
その後、偶然にもそれほどあまり会う機会が無かった姉からのプレゼントで、ビートルズの魅力に憑りつかれていった。

独特のハーモニー
私が最も惹かれたのは、それまでの音楽とは全く違う世界観だった。
それまでのコーラスは、リードボーカルのバックにきれいなハーモニーを付けるのが一般的だったが、彼らのハーモニーは全く違っていた。
地声のぶつけ合いによる独特なコーラス、それと通常は伴奏のはずの楽器が前面に出て来て、声もギターもベースもそしてドラムさえもそれぞれが主張しているのだが、それがまたなんとも不思議なハーモニーに収まっていることだった。
演奏と歌声との縄張り争いをいしながら、誰というよりも4人それぞれが光り輝いている。 
そして、その歌詞がまたいい。
表現がストレートで、思ったままそのままの詞なのだ。
そういった意味では“I Want To Hold Your Hand”は、直訳すれば”あなたの手を抱きたい”だが、”抱きしめたい“というタイトルは非常によく彼らの詞のポイントを掴んでいる。
このストレートな詞の数々が、当時の私の純真な(?)心にドーンと入り込み、あの摩訶不思議なハーモニーが耳から離れなくなるのだ。

この時から、この歳になるまでずーっと彼らのファンを続けている。
それ以降、東京に出てからも次々に発売するレコード(当時はとても高価だった)を全て買い、毎日寝る前には必ずLPを1枚聴いてから寝るのが日課になった。
ギターを買い、彼らのような曲を作ろうとそれから10年近く作り続けたが、日本語の詞を付けると見事に歌謡曲となってしまい、彼等のような曲を作るためには、サザンオールスターズの桑田君のような英語だか日本語だか分からないような詞でないと難しい。
今でこそ結構うまく詞が付いているが、彼らのデビュー曲「勝手にシンドバット」の最初に買ったレコードの歌詞カードには、〇〇、××、△△といたるところに訳の分からない部分があった。
私はこれを見た時に、「あっ、汚ネーナー!やられた!」と思った。
あの曲から日本の歌は本来の日本語がおかしくなり、最近の詞がごちゃごちゃと羅列する曲に繋がっている。
しかし、“ビートルズのような曲を作る”・・という私の夢は、62歳の時に実現した。
私はたまたま相談した人の口車に乗って、使わなくなって何年も放ってあった会社のクリーンルームを100人程収容できる音楽ライブのスタジオに改装していた。

親父バンド=セルパップブラザーズ
私の音楽熱は、28歳の時に仕事が忙しくなり、それから以降40年以上は年末の忘年会でジュリーをやったりサザンをやったりエルビス・小林としてエルビス・プレスリーの衣装を着てカラオケを歌う位で、ほとんど休眠状態であったが、このスタジオができてしまったことにより少しずつ昔のビートルズ熱狂時代の感覚に戻りつつあった。
それから友人の還暦ライブをこのスタジオで開催した時に、「俺にも歌わせろ!」とビートルズの曲を歌ったことから完全に目覚め、その友人ともう一人音楽スキルの高い人が加わり、親父ロックバンド「セルパップブラザーズ」を結成した。
そして、私が作りたかったビートルズのような曲を作るべく、40数年ぶりに私が詞を書き、その音楽スキルの高い人に曲を付けてもらった。
その人は、私がちょこちょこっと適当に書き、曲が付いた後に修正すればいい・・・と思っていた詞にそのまま曲を付けてしまった。
これが「中小零細Q.C.D.」という曲で、中小零細製造業の悲哀と心意気を謳った曲だった。
当時、世の中はリーマンショックの影響で不況の影が忍び寄ってきた頃であった。
私は中小零細製造業が、デフレだ、インフレだ、円安だ、円高だと何かあるごとに真っ先に一番割を食う状態に憤りを感じていた。
しかし、我々中小零細企業はあらゆる困難な条件を乗り越えて逞しく生き残り、自分の持っている技術だけを武器に、将来に夢を持って進むんだという心意気も同時に詞に盛り込んだ。
このコンセプトがまず地方の新聞社を動かし、NHKテレビのプロデューサーに届いた。「中小企業の経営者たちがロックで吠える!」みたいな新聞記事を皮切りに、NHK長野放送局から取材の申し込みがあり、ニュース番組の特番に出ることになった。
結局この番組企画がうけたらしく、今度は東京のNHKが「おはよう日本」で取り上げることとなり、再度取材を受けた。
この時は関東甲信越のみだったが、地方版とは異なり、放映終了後に全く知らない人から携帯に家電に電話がひっきりなしにかかって来たのには驚いた。
その後再び、地元のニュース番組の年末スペシャルへの生出演の話があり、立て続けに3回のテレビ収録となった。
生出演というのはまさにそのまんまのため、いくら図々しい私でも非常に緊張した。
しかし、これは人間一生の内でなかなか味わえない貴重な経験となった。
その後、民報のテレビの取材を受け3ヶ月で4回テレビに出たため、これからどうなるか?と思ったが、結局は何にも無かった。しかしその後も曲を作り、このグループでは6曲、様々なコンセプトの曲を2人で作り上げた。
これが、私が20代にやりたくても叶えられなかった”ビートルズ”のような曲となった。

「中小零細Q.C.D,」
作詞:エルビス・小林
作曲・編曲:ギブソン・小泉
演奏・歌:セルパップブラザーズ

仕事が欲しけりゃQ.C.D 倒産いやならQ.C.D.
生きていたけりゃQ.C.D.
QQQQ CCCC QQQQ CCCC QQQQ CCCC D
中小零細は大変 (チェック チェック)
品質いいのは当たり前
安く安くコストを優先 
早く早く納期は厳守
だけど俺らにゃ技がある 
誰にも負けないテクがある
匠の技だよミクロンオーダー!

デフレ インフレ 円高 
バブル弾けて超不況 何があっても全部 しわ寄せ中小零細
金取り主義の「ISO」
形ばかりの「TQC」
あれダメこれダメ「ローズ問題」
スタイル重視の大企業
ベイビー! 「そんなの、そんなの関係ねぇ!」
      「そんなの、そんなの関係ねぇ!」

中小零細は大変
昼も無い夜も無い 休めない
危険、きつい、汚い 3K
オンボロ機械のオン・パレード

だけど俺には 夢がある 
誰にも負けない意地がある 
目指す技術は世界ナンバーワン!

日本のモノ造りは 中小零細の底力
決して大企業の 力なんかじゃないぜ 
オイラの技術は本物 誰にも絶対マネできない
何がタイだ中国だ インド ベトナムもいいけど 
そんなの そんなの関係ねぇ 全然全然関係ねぇ

セルパップブラザーズの民間テレビの映像☟

https://www.youtube.com/watch?v=v5c9IhGVM6g

NHKの映像☟

https://youtu.be/7FLpkXFx8sg?si=qq6YCRtB7m1e-Ox3

厳格なドイツで評価
私がビートルズに夢中になっていた18歳から20代前半の頃、大学に行っても「ビートルズのファンだ」とは言えなかった。その頃の日本でビートルズは、「あのグループはエレキをガンガン鳴らし、大声でがなり立て、髪の毛を伸ばした不良バンド」というようなレッテルを貼られており、いわゆるミイちゃん、ハアちゃん等の音楽だと馬鹿にされていた。
先般リバプールに行ったときに聴いた話だが、高校生だったその人が、ビートルズの日本公演を観に行ったのが学校にばれて停学処分になったということだから、その当時の様子は押して図るべきであろう。
そんなビートルズだったが、確かブラジルのジャズのメンバーが初めて彼等の曲を取り上げ、イエスタデイの後頃からクラシックの演奏家が演奏したりし始め、次第に彼らの音楽は素晴らしいモノだ・・・というような風潮が現れ始めた時は本当に嬉しかった。
ビートルズが、日本においてようやく市民権を得たということだ。
そして結局ビートルズというグループは、あの音楽的に厳格なドイツで、通常のポピュラー音楽とかロックとクラシック音楽の間にビートルズの楽曲という一つのジャンルが設定されたと聞き、彼らの音楽は私の感性での評価とは別個に、きちっと音楽の歴史にもその地位を築いたということだ。
ビートルズのレコードアルバムは全て買ったが、出るたびに必ず何らかの進化があった。特に後半なってくるとその進化はすさまじかった。
彼らはイエスタデイでストリングスを入れ、ジョージがインドのシタールを使ったのは有名だが、吹奏楽、オーケストラ、テープの逆回し、様々な電子音等々、その当時に出来ることは何でもやった。

5人目のビートルズ=ジョージ・マーティン
5人目のビートルズと言われるジョージ・マーティンというプロデューサーの存在が大きかったらしい。 彼のクラッシックの素養が、後半のアルバムにはかなり影響を及ぼしている。
ポールが、ジョンが、ジョージが持ち込んだ曲を、みんながそれぞれ自分なりの音で表現する。それとテープのトラックによる多重録音が凄い。
恐らく彼らにとっては、この多重録音は音楽の実験の場だったのではないか?と思う。
原曲に次から次へと様々な音を重ねていく。
「これを入れたらどうなる?」
「あれを入れたらどうか?」
4人+1のミュージシャン達は、面白くてたまらなかったのではないか?
その結果、「ラバーソウル」、「リボルバー」、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、「アビー・ロード」と、次々とそれまでの音楽の壁を打ち破り、全く新しい世界を作り上げて行った。
ジョージ・マーティンはこのビートルズを使って、ロック音楽とクラシック音楽の融合を図ろうとしたのではないか?と思われる。
サージェント・ペパーズ…の構成は、アルバムそのものが一つの組曲のようなものとなっており、曲を繋げてみたり、オーケストラを駆使したりで、とてもロックの曲とは思えない仕上がりとなっている。特に「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」での「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」という曲などは、その構成、アレンジ、様々な効果音は素晴らしく、エンディングなどはオーケストラの楽曲のように聞こえてしまう。
バッハ、ブラームス、ショパン、ベートーベン、ビートルズと並べて歴史に残るような偉業だったのかもしれない。

私独自の視点
ビートルズについては、私独自の視点がある。
このグループの基本は、各自の個性ではないか?と私は思う。
冒頭でも述べたが、4人の各楽器、そして声はそれぞれに主張しているが、その個々の主張がなんとも言えないハーモニーを作り上げてしまうのがこのグループの最大の特徴だ。
通常、会社でもコーラスグループでも誰か中心となる人がいて、その人の思いとか考えでそのグループは進んで行く。
ところがこのグループは、特にジョンとポールという強力な個性と音楽的感覚を持った二人が、自分の個性をお互いにぶつけ合いながら曲を作り演奏する。
特にこの二人の声のぶつかり合い=ポールの甲高い声、ジョンの渋みの利いたちょっと低い声のぶつかり合い・・・この摩訶不思議なハーモニーが素晴らしい。

ビートルズ経営
これから今まで誰もやったことの無いビートルズと経営に関する考え方を述べたい。
まず一つ目
このグループはユニークであるという点だ。
ユニークというのは「人がやらない、人ができない」ようなことが出来るということだ。
当社ではこの「人がやらない、人ができない」コイルを造れと言っている。
そして二つ目
このグループは、次から次へとどんどん新しいモノを生み出して行く。我がセルコも、コイルを曲げる、圧縮する、成型する、というそれまではタブーとされていた製法を駆使し、これまでには無いモノ造りを実現してきている。
そして三つ目
前述したように、ビートルズのメンバーはぞれぞれの個性がはっきりしており、彼等が醸し出す音楽はその個性がぶつかり合い、それが不思議と上手く融合し、なんとも言えない不思議な調和を醸し出す。
当社の社名はSELCOと言ってSelf-controlの略、すなわち自分のことは自分でやれ、自覚を持て、自分の個性を出せ・・・と言うことであり、 当社の経営理念は英語で“Harmony & Prosperity in Self-control people”=”自らをコントロールし、調和と繁栄をもたらす”であり、自分を光らせながら自分の欲や自我を抑えることにより調和を見出し、その果てに必ず繁栄がある・・・というモノだ。
私は、経営は出来れば異質で個性の強い2人以上の人達によって行われるべきだと思っている。
過去を振り返れば、ソニーの井深大氏、盛田昭夫氏そして後から大賀典雄氏と、それぞれ個性が強く意見が違ったことも多々あったかと思うが、最終的には合意し、会社運営を進めたのだろうと想像する。 そしてホンダの創業者本田宗一郎氏は、藤沢武夫氏に代表印を渡して経営管理は託し、自分は技術開発に没頭したと言われる。
結局1人で出来ることは限られており、1人が2人、2人が3人になればそれだけ大きな仕事ができるし、異なった視点からモノが見えるのだ。
ビートルズでいえば、様々なサウンドが出てくるのだ。
我々中小企業の経営者は、ほぼ1人で考え、1人で決め、1人で会社の運営を進めているが、できれば自分には耳が痛いようなことを言ってくれる”モノいう社員“が居ることがその会社を更に発展させるポイントになるのかもしれない。
また、様々なアイデアや発想は1人よりも大勢いた方が間違いなく良い。
1つのアイデアをみんなで揉んで結論を出す・・・ビートルズの曲は1人が持ち込んだ曲を、イントロはこう、間奏はこう、エンディングは?等々、みんなで造り上げた結果がなんとも他の曲とは違う独特な曲となっている。

 そんな経営ができたら、これが正に「ビートルズ経営」と言えるのではないか?

私が経営者でいて、無類のビートルズファンだったことから、このような突拍子もない「ビートルズ経営論」が生まれたが、「様々な個性溢れるユニークな人達が集まり、それまでなかったような新しい技術や製品を生み出して行く」ことは、間違いなくこの多様化する現在における経営には必要なことだと思うのだ。
セルコとビートルズの違い?
その考え方やり方は似通っているが、発展・繁栄の速度、規模が全く違っているということだ。
しかし、このままの経営を続けていれば、時間はかかってもビートルズのように脚光を浴び、繁栄する可能性があるということは間違いない。

あとがき
ビートルズの”When I’m Sixty-Four”という曲で「僕が64になって禿げても、相手をしてくれるかい?」と歌っていたポールも今では81歳、ジョンは40歳という若さで凶弾に倒れ、ジョージは58歳で病死、リンゴは今83歳。
64歳・・・なんてとんでもない歳だとこの曲を聴いた時は思ったが、今私も77歳。
それこそとんでもない歳になってしまっている。
リバプールで、タイムスリップして一度は20歳の若さに戻ったものの、それもあっという間の1週間だった。
今日の朝、従業員から「会長はいつも元気ですねぇ―!」と言われ「いつもカイチョウだよ!」と答えたが、人間いつ最後を迎えるかは誰にも分からない。
臨終の時はできればビートルズの曲を聴きながら・・・と思っているが、“抱きしめたい”とか、“She Loves You”なんかだったらまた生き返ってしまいそうだから、せめてポールの“Let It Be”とか、“The Long And Winding Road”、ジョンの“Love”とか“Imagine”で安らかに逝きたいものだ!

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喜寿(77歳)

本日9月28日は、私の誕生日だ。
77歳になった。

通常は”楽隠居“の歳かと思うが、私はまだまだ現役。
それでもセルコの経営については息子にほぼ任せ、私は大きな問題、基本的な問題でひっかかった時だけ意見を言わせてもらう。
株式会社セルパップの社長、中国大連の総経理はそのまま継続してやっている。
それでも最近は水曜日をお休みにし、土曜日と2日間はマレットゴルフの日として女房と高速に乗って30分の坂城町の河川敷のマレットゴルフ場で友人と合流し、3人でプレーする。
マレットゴルフというのはパターゴルフをそのまま大きくしたようなスポーツで、クラブがスティックに替わりボールがプラスチックの10数cmのボールに替るだけで、ルール等はゴルフと全く同じ。
IN、OUTともにパー3、パー5がそれぞれ2ホール、後の5ホールがパー4となっており1コースが9ホールで勿論OBもある。 

この坂城町のマレットゴルフ場は大変整備された無料のコースで、コースは4コース36ホール、距離(全長2057m)もマレットゴルフにしては長く、短いホールで30m、長いホールで100m超、またそれぞれのホールが上手く設計されておりバンカーや池こそないが、微妙な傾斜や凹みで相当正確に打たないと狙ったところに転がせない。それと樹木が沢山あって、夏の暑い時は1ホールごとに日陰があり助かる。それに町できちっと管理しており、コースの芝刈りは草が伸びる時期はほぼ毎週やっており、コンディションは常に最高の状態となっている。
小諸の近くにもマレットゴルフ場はあるが、コースが短かったり、立地の関係で坂城のコース程良いコースは無く、毎週2回高速代を払って通っている。

昨日も水曜日で朝7時から約2時間強このコースでプレーした。
朝早いと殆どプレーしている人はいないため、この気持ちの良いコースを3人で貸し切り状態は更に気分がいい。
昨日の私の出だしは好調で、最初の2ホールはバーディースタートでハーフを32で回った。ところが後半、女房が100mのかなり難しいロングホールで、なんと2打で入れアルバトロス達成となってしまったのだ。
そしてその2ホール後のショートホールで、友人が今度はホールインワンを達成。
確かにゴルフよりははるかにスーパーショットが出る確率は高いが、マレットでもそう頻繁に出るものではない。
ホールインワンは3人で月に1度位出るが、アルバトロスは滅多には出ない。
これがポンポンと立て続けに出たので、これにはびっくりした。

こういうことがたまに起きるマレットは、そんなにスキルが高くなくても面白い。
このマレットが私の運動の基本であり、坂城に出かける時を除いた平日は、会社へ行く前に近くの公園のゲートボール場で毎日30分弱練習をしている。
その後は会社で従業員入り口、玄関周り、会社の前の通りの清掃を毎日欠かさずすることを私の運動の日課としている。

また、きちっと話ができる状態を保つためには喉を鍛える必要があり、今年初めから歌を本格的に基礎から習い始めた。
これがまた面白く、年齢にかかわらず声は出せば出すほど良く出るようになる。
そして、きちっとしたブレスとかリズムとか音程が合ってくると、自分で歌っていてとても気分が良い。また今までは高くてとても歌えなかったような曲が歌えるようになるとこれが更に嬉しい。
筋肉と同じように、喉も使わないとどんどん退化してしまう。
運動すること。
喉を鍛えること。
これが私の若さの秘訣かもしれない。

昨日は午前中マレットをやった後、午後からその喉を使いwebの講演会で講師を務めた。
ここでまた私は一つの特技を見出した。
私は講演で時間を気にしながらその内容を話すよりも、質問されてとっさに応える能力の方が遥かに高いということに気が付いた。
質問されその時の雰囲気で最も適切な解答を見出し、瞬時に答える。その臨場感とかライブ感がたまらなく心地よい。

色々とまた横道にそれたが、この歳になって先月はリバプールに行き、年甲斐もなく声が嗄れるまで騒いだり、マレットゴルフにのめり込んだり、70代の手習いで歌を習ったり、講演をしたりと好きなように生きている。
先般血液検査をしたら、様々な値が良い方に向かっている・・・と言われた。

今日のこの誕生日
健康に感謝である!

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