イギリス リバプール ビートルズウィーク

ロンドンからリバプールへ

本当は3年前に行くはずだった。
あの忌々しいコロナ騒動によって、私のゴールデンエイジ(70歳から80歳の自由に使える時間)の1/3が失われ、このリバプール行きも延期されていた。
羽田から15時間、北極圏周りのJAL直行便でロンドン、ヒースロー空港に降り立った。
…と書くと格好良さそうに思えるが、実際はこのビートルズウィークに参加、演奏する日本のトリビュートバンド(コピーバンド又はカバ―バンド)の皆さんにくっついて行ったのだ。
まずは、ロンドンと言えばアビーロード。あのビートルズの傑作と言われる同名のタイトルのLPレコードと、4人が横断歩道を渡る写真はあまりにも有名。
一行11名は電車を乗り継ぎ、最寄りの駅からタクシーに分乗してこの憧れの地に行った。
なんの変哲もない横断歩道だが、車が途切れている間にこの横断歩道を大股で歩く姿を撮影する人が後を絶たない。映像に納まったとたんに、この横断歩道は貴重なビートルズ体験に変わるのだ。
女性のビートルズバンドHIPSの4人がいつの間にかステージ衣装に早変わりしており、車の往来の関係で何度も何度も繰り返して「4人の横断歩道写真」が撮れた。
また男性+紅一点の#4Dreamの5名も写真に無事納まった。

ロンドンからリバプールへは、イギリスの南東から北西へ斜めに横断するようなイメージだ。
2時間20分でリバプールに着いた。

古い赤レンガの建物が多いこともあるが、なんとも独特の雰囲気のある街だ。
石畳のような道が多いため、キャリーバックを運ぶのはちょっと大変!
ビートルズのホームグラウンドで、かの有名なマネージャー、ブライアン・エプスタインと初めて出会ったキャバーンクラブの付近に近づくと、あちこちから大音量でビートルズの曲が聞こえてくる。
益々気分は高まり、これは現実の世界から夢の世界への入り口だった。
私が泊まったホテルは、ハードディズナイトホテルと言って、外から中から全てがビートルズ一色のホテルだった。
各部屋のベッドの上に、大きなビートルズのメンバーを中心とした写真が掲げてある有名なホテルである。
私の部屋は、ポールとジョージがマイクに向かっている写真だった。

困ったのはコンセントが一箇所しかないということ。 PC、スマホ、スマートウォッチ、翻訳機、Wi-Fi機と全て充電が必要な機器だらけで、コンセントが一つしかなかったということと、持って行った分配ボックスの電圧変換のコンセントが繋がらず、これには困った。

それにしても初日のスケジュールは過酷だった。
ロンドン、ヒースロー空港に着いたのが朝6時台(日本時間午後2時台)、そこからユーストン駅に向かい、タクシーに分乗し、アビーロード。アビーロードの後はサンドイッチを食べてから一路リバプールへ。ホテルに着いたと思ったら1時間もしないうちにカサバツアーと言って、ビートルズが結成前のクォーリーメンというグループが演奏していたというパブの見学ツアー。終わって食事してホテルに戻って9時頃(日本は朝の5時)。

8時間の時差というのはきつい。
いつ寝るべきなのか?いつ食べるのが良いか?眠いのか?お腹が空いているのか?よく分からない。
結局、寝そびれたり、食いそびれたりするのだ。

カサバツアー

カサバツアーで面白い話を聴いた。
このクラブの改装を手伝うことになったメンバーのジョージ・ハリソンが、この改装にあまりにものめり込み過ぎて練習そっちのけで改装に打ち込んでいたため、メンバーのリーダーがジョージに腹を立てここでの演奏はやらないという話になってしまった。そこで困って、たまたま見つけたメンバーがジョンとポールだったという話だ。
後から考えれば、“人間万事塞翁が馬”であり、何が禍で何が幸いなのか分からない。
誰も、このグループが後に偉大な音楽グループになるということは想像も出来なかったからだ。

キャバーンクラブでの応援

翌日の午前中は休み。
日本との時差との追っかけっこで、朝起きてから午前9時(日本の午後5時)までが、コンタクトが取れるタイミングだ。逆にいうと、その後のメールは明日まで読まれない。
Wi-Fiの関係で、スマホのラインも、国内のように調子よく会話形式にはならないし、添付の写真もなかなか日本まで届かない。動画などは全く無理だ。
午後は一緒に日本から来たグループ、#4DREAM(フォードリーム)のキャバーンクラブでの最初のライブだ。
同行した応援グループから赤や黄色のぼんぼりや、グループ名や日本の国旗の入った小さなウチワが配られた。
演奏前は多少スペースがあるが演奏中は、狭いホールはどんどん詰まってくる。
いつの間にか私もその最前列で応援することになっていた。
遠い異国の全く知らないところで、何も遠慮することは無い。
それも知らない曲は無いビートルズの曲だ。
一緒に歌い、叫び、手拍子し、踊りまくりながらの応援。
スピーカーの真ん前で、いくら大声を上げても、全く自分の声が聞こえない。
演奏45分間、アンコールを加えて+αの時間、汗がにじみ出て来て、最後は汗だくになる。
こちらが終わると、既にもう一つの女性グループHIPSの演奏が違うフロアで始まっているから息継ぐ暇もなく駆け付け、今までの勢いそのままに応援する。
とても77歳の喜寿のおじいさんとは自分でも思えない。
終始禿隠しの帽子をかぶっていたから、他の人にはなおさらだったと思う。
結局最後の最後まで、1日4回×4日間このスタイルで通した。
演奏は?というと、日本の数あるビートルズバンドの中から選ばれ、世界の檜舞台で全く引けを取らず両グループ共、堂々と決してうまくはない英語でジョークを飛ばしながらの演奏は見事である。
お客もその辺はわきまえており、国がどこの国であれ、それぞれ惜しみない拍手を送る。
そんな中で、更に盛り上げようと我々応援団は、必死で身体を揺らし、旗を振り、声を上げるのだ。

近郊散策ツアー

二度ほど、バンドの人達も一緒に近郊ツアーに出かけた。
全てマニアックである。
まずはポールの家を見た。そこからジョンの家まで、ポールが毎日通った道を歩くというツアーで、これはなかなか良かった。
ゴルフ場を突っ切り、殆ど緑の中を歩く。
気候的にも、軽井沢で散歩しているようなイメージだ。
ポールがこの道を歩きながら書いた曲もあるとのこと。
偉大な芸術家は、やはり自然豊かな地で育つのだと勝手に解釈した。
ジョンの家・・・と言ってもジョンは幼い頃にお母さんを亡くし、お父さんは船乗りでジョンを置いて去り、おばさんの家で育っていた。
そのジョンの家で、みんながそれぞれ写真を撮り合い、それなりに時間がかかった。

次の日はジョージの家にも行った。
ポールとジョージの家は長屋の一角で、大分下層階級の様子だ。ジョンの家は一応門構えのある1軒屋だから、多少上か?
いずれにしろ、イギリスの貧しい生まれ育ちの青年達が、やがては世界を席巻するミュージシャンになって行ったのだ。
ジョンがよく遊んだ道、ジョンが木に彫ったイニシャル(良く解らなかったが・・・)、仲間とよく行ったパブ等々…
その中でも有名なのがジョンとポールが出会った教会であり、ここでジョンがポールのギターのうまさに惹かれたということだ。
この教会のホールで、我らがビートルズのメンバーポール役のteaさんがギターで歌い出した。
続いて、紅1点のエリさんがピアニカで加わり、ジョン役のずーさんがさらに加わった。
これは素晴らしいパフォーマンスだった。

音楽ほど、人の心を和まし心を通わせ合うことのできるモノはない。
ジョンとポールの最初の絆がこのようにして生まれ、育って行ったのだろう。
その他、歌に出てくる街ペニーレーンでは、歌詞の床屋や銀行のあった場所をみんなで追った。
翌日のストロベリーフィールズは、すっかり商業施設になっており、有名な赤い門で替わり番手に写真を撮ったり、お土産を買ったりした。
この建物の中には、ジョン・レノンがイマジンを作ったピアノが置いてあった。ビデオに出てくる白いピアノはビデオ用のもので、これが本物だと案内の人が強調していた。

ツアーが終わると、またライブ応援である。
会場がちょっとリバプールの町から離れたホールとなり、普通の劇場スタイルの場所での演奏はちょっと観客数が足らず、ここは我々応援団が頑張らなければならない。
結局、私も舞台袖まで連れて行かれ演奏者の前で踊りまくることになった。
あちらの人は結構一緒に音楽を楽しもうとする人が居り、一緒に踊り会場を盛り上げてくれた。
その帰りにツアーコンダクターの人達と一緒だったため、どこか美味しい店に連れてってもらえないか?とお願いし、何件か覗いた結果中華料理店に連れてってもらい、ここでイギリスに来て初めて料理らしい料理が食べられた。
次の日も今度はイタリアンの店に案内してもらい、ここもなかなかの味で満足した。

55年前の学生時代の最後に、当時は「洋行」と言われ円も今よりもはるかに安く、なかなか簡単に行けない時代に親のすねをかじりヨーロッパ9ヶ国旅行に行った際、ロンドンに行った。
その時の印象でイギリスの食事は上手くないと思っていたが、中華料理とかイタリアンであればそれなりに美味しいということが良く分った。

アナログズ鑑賞

2日目に、ホテルから結構離れた場所にフィルハーモニーホールという大きな劇場があり、そこでアナログズというビートルズのトリビューバンドで有名なバンドの演奏があったが、これは素晴らしかった。11人くらいの編成で、その名の通りビートルズはスタジオ録音だけでライブは一度も行っていないような、後半のアルバムの難解なテープ逆回しのような曲等を、チェロやバイオリンで再現しそれがまためちゃうまい。
通常、ビートルズのトリビューバンドは誰がジョン役で誰がポール役と決まっていて、それぞれそのパートしかやらないが、このグループは5人のボーカルがおり、結構適材適所で歌い、それが皆抜群に上手いからたまらない。
思わず身を乗り出して聴き入ってしまった。

道に迷う

大変だったのはこのコンサートの後、既に夜中の1時をまわっており、毎日9時に寝る私にとしては少しでも早く帰りたかったため、先に出て行ったグループの人達を追った。
ところがホールを出た途端、突然の大雨で雨宿りをする他無く、あちらの酔っ払い数人と、既に閉まっていたレストランの軒先で訳のわからない酔っ払い英語を聴きながら小降りになるのを待った。
ようやく小降りにはなったが、先に行った仲間の人達はどこにもいない。
来た道を帰ることになるが、全くの方向音痴で、来た時はグループの人の後をついて来ただけで断片的な記憶しかなく訳がわからない。
それでもどうにか歩いて行くと、確かに通ってきたような道があり、とにかく歩けばどこか見覚えのある場所に行けるだろうと、グーグルマップは例のWi-Fiが充電不足で使えないので持っていた地図を頼りに歩くのだが、自分がどこにいてどこへ向かわなければならないのかさっぱり分からない。
結局40分くらい小雨の中を傘もなしに彷徨った。
気持ちに余裕があれば“真夜中のリバプールの散策”ということでもいいが、なにせ早く帰って寝たいという焦りがあるから、ただがむしゃらにみじめな気持ちで歩いただけだった。
閉まりかけていたレストランがあったため、店仕舞いをしていたおじさんに雨に濡れてボロボロになった地図を指さして、ハードディズナイトホテルを連呼したが、地図ではわからないらしく、このおじさんはスマホで検索してこの道を下り、突き当りを右に行き、SMBC銀行を右に曲がれば良いと教えてくれた。
多少不安はあったが、その通りに歩いたらホテルがあった。
これで約1時間弱の“夜の小雨のリバプール恐怖の彷徨(さまよ)いツアー”を終えたのだった。
次の日は朝9時から例のジョンやポールの家の散策ツアーがあるため、とにかく早く寝る必要があった。結局この日は夕飯もなし、次の日の朝食は土曜日で9時に開くレストランは間に合わず食べっこ無しで、寝る時間も食事もままならない2日目だった。

悲惨な最終日

とにかく毎日があっちだこっちだとスケジュールに追われ、時差ボケと不規則な食生活を背景に、ライブの応援となると20代の若さに戻って目一杯声を出し、身体を揺する毎日はいわゆる「ハイ状態」となっていたのだと思う。
リバプール最終日はこのツアーのファイナルディナーで盛り上がり、その後我らがteaさんが「一人Queen」といって、ギター1本でQueenの映画「ボヘミアン・ラブソティー」で有名になったあのライブエイドの曲をカバーした。それも素晴らしく張りのある声量、完璧なリズム感、卓越したギターテクニックでのカバーは何回聴いても感動モノだ。
映画「ボヘミアン・ラプソティー」が大ヒットして、Queenブームが沸きあがった5年ほど前は、あっちこっちのライブハウスで引っ張りだこ状態だった。
そのteaさんがビートルズの本場、ビートルズの祭典の会場で、これまたイギリスのスーパースターのQueenをやるという他の誰もできないパフォーマンスは、今回の最後にして最大のイベントだった。
私はそのファイナルディナー後、スマホをホテルに忘れていたためちょっと取りに帰ろうとホテルの部屋に戻った。
疲れがピークだったため、ちょっとだけ休もうとベッドに横になった。
…そして目が覚めた時はライブは既に終わっていた。
狂乱の5日間、その最後を大声援で大盛り上げにして締めくくろうと思っていたスペシャルイベントを、なんと疲労困憊のため見逃すという何とも情けない締めくくりとなってしまったが、まるで別世界の「夢」のような5日間はこれでTHE ENDとなった。

ロンドン観光をして帰途に就く 

翌日は近くのスーパーや地理についてもようやく分りかけてきたこの街、コンセントが少ないハードディズナイトホテを後にしてタクシーで駅に行き、電車でロンドンに向かった。
一晩泊まり、翌日は4人のグループでロンドンの観光に行った。
お決まりのバッキンガム宮殿の衛兵交代は時間に遅れて観るチャンスを逃したが、行進は観ることが出来た。ウエストミンスター寺院と、新装となったビッグベン、ロンドンアイという観覧車でロンドン市内を一望、そしてタワーブリッジと、定番の観光地を見て回った。

夜7時半のロンドンヒースロー空港発のフライトであったが、全員大分早めに空港に向かい、帰りはイギリスから日本に向けて一直線のコースを取ってやはり15時間のフライトとなった。
バンドのメンバー、そして応援随行の人達、ずっと一緒にいると自然と親交が深まり別れるのが寂しい状態になる。
また是非会いましょう、とそれぞれ別れを告げ、帰路に就いた。      

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腰痛とスポーツ観戦の日々

約1ヶ月前、ニコニコグループという私が主催する同年代の人達のグループで、毎年恒例の味噌作りのため、糀屋さんへ行き、米麹の袋20kg×7つを一人で運び乗用車の荷台に乗せ、会社の脇の集会所(前の工場跡)に運び入れた。
この頃の私の身体は絶好調で、腰も足もどこも痛くない、毎日、2㎏のダンベルを両手に持ち、腹筋70回(100回目指して50回から徐々に数量アップの途中)、腕立て100回を毎日こなし、身体には自信があったため、人を待てばよいものを、一人でみんな片付けたのだった。

それから、しばらくすると、腰とか、腕とかに異変があり、何か変だなと思いながらも、ずるずると来た先週。突然、歩行がおぼつかなくなった。
会社に通う道にある以前肩から背中にかけて猛烈な痛みが出た時行った整形外科へ駆け込み(実際は足を引きずりながら)、レントゲンで見たら、なんと「脊髄管狭窄症」とのこと。そこで、牽引と、電気療法をやったが、一向に良くならない。
友人に相談したら、上田(小諸から約40分)にブロック注射をしてくれて、一発で良くなる・・・とのこと。
但しそのお医者は、大変混んでいるため、朝6時に予約受付し、8時半から診療開始とのことで、痛い腰をひきづりながら、自分で運転して6時に予約を取りに行った。
「2番目」ということで、どうにか当初の目的を果たし、8時半まで時間があるため、一旦家に帰ることにした。
帰りの車の中で、この痛みで、もしカーブとかでブレーキを踏む力が出なくなったら…と思い、次の診療に行く時は、女房に運転してもらって行った。
女房の運転のセンスの問題で結構時間を喰ってしまい、二人で言い争いなら、どうにか8時半ぴったりにその病院に着いた。
しかし、入ってみると、そこに既に20名以上の人がいる。
結局、取った順番は何もならず、最初に看護婦さんに声を掛けられるまでに約1時間、診察するまでにそれから更に1時間、そこ持ってきて脊椎へのブロック注射は麻酔のため、2時間その病院で寝ていなければならず、都合、約6時間かかった治療となった。
そして一発で良くなると思って期待しながらの6時間、その夜、全く良くなっていないことに気づいた。東京でもどこでも直せるところがあれば行こうとネットで検索していたら、地元小諸に北海道札幌が本部の整体院があることが分かり、そこへ行くことにした。
結果を言うと、そこで教わったテニスボールを骨盤下に当てることによる治療が最も良かったように思う。

しかし、未だ普通に歩くまでには至らない。
結局、それから1週間、会社を休み家で寝て過ごすことになった。
この1週間は、はっきり言って、「スポーツ観戦三昧」の日々となった。

まずは、大谷翔平選手がいるエンジェルスの野球観戦である。
これは、結構時間もかかり、大谷選手が、ニュースのダイジェストのように、ぼんぼんヒットを打ったり、ホームランを打ったりするわけではなく、私が見ていたこの週は、圧倒的に空振り三振が多く、たまに打つホームランよりも、観ていて疲れる方が多いように思えた。
それから大相撲である。
この場所は、久しぶりに横綱照ノ富士が場所入りした。
いつも上位陣が大荒れとなる序盤は、珍しく上位陣が安定した始まりであった。
しかし、中盤あたりになると、そろそろ勝ち負けがはっきりし始める。
コロナ時にルールを破り、しばらく謹慎の後、幕下から勝ち進んできて平幕に返り咲いた元大関朝乃山が勝ち進んでおり、当然応援したくなる。
そして私は好調の関脇4名中、若元春に目を付けた。
左四つになると滅法強い、昔の初代若乃花を彷彿させるような体形の力士だ。
結果としては、横綱照ノ富士が14勝1敗で8度目の優勝。
同じモンゴルの霧葉山が11勝4敗で大関昇進。
若元春は同じく11勝4敗で技能賞。
朝乃山は12勝3敗という結果に終わった。
最近の相撲は、20年以上前の八百長相撲は無く、いわゆる「ガチンコ相撲」のため、見ていて非常に迫力がある。
その代わり怪我がかなり多い。
力士は、相手との闘いもあるが、自分の怪我との闘いでもある。
照ノ富士も、大関でようやく勝ち越してカド番脱出した貴景勝も膝に大きなテープを巻いていたし、その他の力士も途中休場してまた出てきたりして、怪我と戦っている。
また、入幕後1場所で十両に上がった落合が優勝こそ逃したが、14勝1敗で、うまく行けば翌々場所で平幕昇進ということになるという、スピード出世の力士が現われた。
未だ散切り頭だが、来場所から伯桜鵬というシコ名となるようだ。
宮城野部屋で親方があの大横綱白鵬で“ハクオウホウ”というシコ名は、いかにも親方が期待を寄せたシコ名かと思う。
同じく宮城野部屋の204㎝の大型力士、北青鵬も、あの大きさで鍛え上げれば、今後面白くなりそうだ。
ここはまずは、朝乃山が早く大関に返り咲き、大栄翔とか豊昇龍も大関、もちろん若元春(今場所休んだ若隆景も)も大関を目指し、その中から横綱を早く出すことで、更に盛り上がることかと思う。

最後に南アフリカで行われた「世界卓球」である。
結果としては日本は銀1,銅2ということで、大したことのない結果に見えるが、これが今回はなかなか見ごたえのある大会であった。
最も凄かったのは、早田ひなの順々決勝であった。
世界ランキング第3位の中国の選手に3対3のフルセット迄追いつき、11得点のゲームにもかかわらず、デュースの繰り返しでなんと21対19で勝負がついた。
殆ど中国選手にマッチポイントを取られながらしのぎにしのいで早田が勝ったのである。
このゲームは時差の関係で毎晩8時頃始まり、最終ゲームは10時、11時となる。
私は9時に寝るから、結局、次の日の早朝、録画を見る。
結果は観ないようにして観ているから、私にとっては、リアルタイムと同じだ。
朝、3時とか4時に、私は一人で、「そこだ!がんばれ!」とか「やった~!」とか大声で叫びながら見る。
しかしこの勝負は凄かった。
私は中学、高校時代、卓球をやっており普通の人よりは多少、卓球については詳しい。
しかし、このデュースの10本の間の、早田選手のメンタルを考えると、正に「驚異的」といえるかと思う。
例えば、12対13ポイントで相手にリードされた場合、精神的にはかなり追い詰められる。
しかも世界卓球という世界の大舞台、相手はめったに勝ったことのない中国の強豪選手、そしてデュースが繰り返し何回も何回もということになるとそのメンタルは極限状態に追い詰められたことだろう。
つい数年前まで、日本の選手はラリー(打ち合い)状態になると、まず90%位は相手のポイントになっていた。
しかし、今回この早田を始め張本、伊藤美誠選手等も結構打ち勝つことが多くなったことが、この最終結果ではとても判断ができない大きな日本選手の進化だ。
私が卓球をやっていた頃は「卓球ニッポン」といって、日本が世界の頂点に立っていた。
その後、「ピンポン外交」とか言って、日本からコーチを中国に送り込み、中国に卓球を教えた。
その頃から、ペンフォルダータイプ(鉛筆を握るような持ち方)からシェーク(握手をする形)に持ち方と、ラケットが変って行った。
結果ここ40数年、中国が世界で断トツの卓球王国となって行き、未だにその牙城は崩れない。
今回韓国選手が銀メダルを取った例もあるが、これはただ単に決勝まで中国選手に当たらなかっただけということだ。
逆に韓国と日本の試合がもっと見てみたかった。
ちなみに韓国と当たった日本選手は、皆、間違いなく勝っている。
恐らく、組み合わせが上手く決勝まで中国に当たらなければ、韓国がもらった銀メダルは日本のものになっていたであろう。(韓国から怒られそうだが、本当のこと)
はっきり言うと、それだけ、まだ中国と他の国の間には大きな差があるということ。
そして日本選手が、まだまだではあるが、かなり中国選手に肉薄する技術を持ち始めてきたということだ。
他のスポーツもそうだが、やはり強くなるためには、自分より上の技量を持つ人がいないと難しい。
私の日本卓球に対する提案だが、野球のバッティングマシーンのような装置を造り、それぞれ、これはどの中国選手の球、これは誰の・・・というような球種のボールを、連続で出せるようにし、これに向かって練習をしたら、次の大会では中国選手に勝てるのではないか?

今日の朝、大阪のABC放送(朝日放送)のラジオ番組に生で声の出演をした。
キャスターが以前のメイド・イン・ジャパンと私の言うシン・メイド・イン・ジャパンについて知りたいということで、約25分、べらべらとしゃべり続けた。
大阪は東大阪の中小零細製造業が有名なため、その人達に届くことを祈りながら、私のシン・メイド・イン・ジャパン説をぶちまけた。


腰の方は、どうにか色々やって良くなってきたが、未だ歩くと、脚があちこち痛い。
もう少しでマレットゴルフもできるようになると思う。
「年寄りの冷や水」
自分をまだまだ若いと過信して、自分の肉体を酷使したりすると、こういう目に合う…という戒め。
逆にこういうことになっても、直ぐに、自分の楽しみを見つけ、それに情熱を傾けるという私のプラス思考もなかなかのものではないか?(2023年5月30日)

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若い人達の政治参加

最近日本の選挙の国民の関心度を見ると、いやになる。
私の住む小諸市は選挙なし無投票、全国でも137の市町村で無投票だったとのこと。
また、議員の多くが60歳以上の男性ということで、全く地方の発展性は望めず、活性化も無理と思われる。
先般、NHKのクローズアップ現代で、この問題を取り上げていた。
今回の統一選挙で若い女性や男性の立候補者が増えたということだ。
これまでの選挙は、とにかく「金」、「知名度」、「基盤」が必要であり、若者が出たくても、それらが無いため、なかなか出られない。
先般の岸田首相を襲った若者も、年齢の問題で立候補できなかったから・・・というようなことを言っていたが、年齢が達してもなかなか立候補のハードルは高い。
ところが今回、若い女性が中心でネットを駆使し、票を集め見事当選した人達がいた。
ネットだけではなかなか票が集まらず、チラシを作ったり、選挙事務所を開設しようとしたが、お金の問題でなかなか苦戦する姿もあった。
東京の渋谷区では、「女性議員を半分にする」という目標を掲げて活動する若い女性のグループがあった。彼女たちは、自分の住む区域のみならず他の区域でも応援するということであった。
「選挙チェンジ、チャレンジの会」などという若者のグループも登場した。

私は、これまで日本の政治に対しては、殆ど絶望的な見方をしてきたが、このような動きは、日本の将来を変える素晴らしい動きとみる。
このように若者が、政治に目覚め、自分達でまずは自分の住んでいる地域を変える、そして県を変え、国を変えて行く。
これを基盤も知名度もない若者が全くお金を掛けずにネット上で出馬表明し、主張をきちっと述べ、仲間づくりをして行く・・・そんなことが当たり前になっていったら、一気に世の中が変わる可能性がある。
これは一種の「革命」だと思う。
昔の革命は、流血を伴った暴力的なモノであったが、現代の革命は、正にネットによる静かにして最強の革命となるのかも知れない。
今年77歳の喜寿を迎える私もそうだが、今の世の中は「年寄り」の世の中になってしまっている。
確かに老人に対する福祉は大事だが、老人の面倒を見るにも、国がそれなりに豊かにならなければ無理だ。
老人にも我慢してもらうところは我慢してもらい、この国にとって必要な教育とか、科学技術とか、新規産業の育成とかに力を入れなければ、老人福祉で経済縮小、老人も若者もみんなで貧しくなって、みじめな将来が待ち構えるだけかと思う。
若い人達は、自分達の将来に夢や希望を持てる社会を、自分達の手でつかみ取る必要があるのだと思う。

                                      以上

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憧れの封印と栗山監督のすばらしさ

大谷選手が、決勝戦前の円陣で「(相手)に憧れるのをやめましょう。憧れてしまったら超えられない。勝つことだけ考えていきましょう」と言った。
出場チームの年俸からするとアメリカ選手は日本選手とケタ違いであり、大リーガーは日本の野球選手にとっては間違いなく憧れの的だろう。
ちなみに今回の日本の出場選手の年俸合計はアメリカの選手の1人分にも満たない。
今後、大谷選手がそのクラスの年俸にはなるが、これまでは日本人では最高の6億円だ。
大谷選手は、そんな憧れの大リーグの選手達に対し、もし日本の選手が位負けしたり、気持ちで負けてしまっていては勝てないという思いからの発言だったかと思う。
試合はその言葉と通りだった。
誰一人として臆することなく、投げ、打ち、走り、打球を追った。
その結果のWBC優勝だった。

この話を聴いて、私はどこか我々中小零細企業と大企業との間にも同様な関係があるのではないかと思い、これをブログに書き留めておくことにした。
我々中小零細企業にとっては、大企業はとてつもなく大きく恐れ多い存在だ。
像と蟻、巨大タンカーと手漕ぎボートの違いであり、とても太刀打ちできるようないのだ。
しかし、我々はこのような大企業と取引するに当たり、この決定的な規模の違いに打ち勝つ必要がある。
これが大谷選手の言う「憧れの封印」に繋がる。
通常、我々中小は最初から大企業には勝てないと思っている。
野球と違い、大企業は「発注」という切り札を持っている。
ちょっと前までは、購買の担当者の一存で、ちょっとでも逆らったり、気に入らないと簡単に転注されてしまい、仕事が来なくなってしまうため、発注先の言うことには逆らうことはできなかった。
最近は、下請法のように中小企業を保護する法律が結構厳しくなってきているが、基本的にはその立場は何ら変わっていない。
だから、私が大企業に対して当然のこちらの権利を主張すると、「今までそんなことを言う会社は無かったです」とか言われたりするが、これは、大企業に対して多くの中小が泣き寝入りかそれに類する取引をしているのかと推測される。
小さい会社が自社の権利を主張するためには、何らかの武器が必要となる。
侍ジャパンがアメリカに勝つためには、それなりのパワーと技量が必要だったように、我々中小にも大企業と太刀打ちできる武器が必要なのだ。
太刀打ちできる武器・・・それは、「技術力」、「高品質」、「対応力」、「低コスト」などであるが、高品質とか対応力、特に低コストではなかなか存在感を示すことが難しい。何と言っても「技術力」だ。
他社ではやらない、他社ではできない特殊な技術、オンリーワン技術が無ければ、大谷選手やダルビッシュ選手無しでアメリカチームと戦うようなものだ。
私のことを言えば、私は常に意識して「大企業何するものぞ!」という気概を持って大企業に対応している。
だからと言って、別にけんか腰で対峙するわけではない。
極々普通で、きちっと相手をリスペクトしながら応対する。
ただもし、相手がただ規模の大きさを傘に着て発言したり、メールをよこした場合には、それ相応の対応をするということだ。
そのため過去には、理不尽な事項に対し、異議申し立てをし、取引が無くなった会社もある。
当社の最近は?というと、当社は顧客に恵まれ、余り私の出る幕もないが、新規顧客の中には、NDAを一方向で・・という会社があるため、これは双方向のNDAをお願いしている。

そんなことで、今回の大谷選手の「憧れ封印発言」は強く私の胸を打った。

ちょっと昨日のWBCの続きを書かせてもらうと・・・・。
昨日も言ったが、今回のWBCは、日本選手全員の総合力だと思う。
投手は、ダルビッシュ選手、大谷選手は別格として、山本由伸選手、佐々木朗希選手を初めとした若手投手が次々と出て来て、任されたイニングをピシャっと封じ込める。
そして打撃も大谷選手、不調だった村上選手はともかく、今回のムードメーカーとなったヌートバー選手、右手小指を骨折しながら確実な守備を見せ、打撃でも活躍した源田選手、そして、かならず塁に出てくれる近藤選手、ここぞという時にきちっと打ってくれる吉田選手、そして岡本選手、その他の下位打線やピンチヒッターの人達もヒット或いはフォアボールを選びとにかく塁に出たり、点を取り自分の役割をきちっと果たした。
この全員野球を演出したのは栗山監督であった。
大谷選手を呼べたのも栗山監督だからであろうし、ヌートバー選手に目を付けたのもこの監督。そして監督が言うには「全員、一流選手であり、色々細かい指示を出す必要が無く、それぞれがそれぞれその場その場の状況を自分で判断してやったため、私は何もしてない」と謙遜していた。
しかし、メンバーの決定からスタメンの組み合わせ、投手の起用、継投、ピンチヒッター、ピンチランナーの判断は監督の仕事であり、これがまた見事であった。
特に私が凄いと思ったのは、準決勝の時の村上選手に代打を出さずにそのまま「思い切りやれ!」とバッターボックスに立たせたことであった。
それまで不振にあえいでいた村上選手は、見事その期待に応えるサヨナラ打を放った。
また、ここぞというところでダルビッシュ選手とか大谷選手を使い、見事な見せ場を作ったのも栗山監督であった。
結局、素晴らしい一流選手が各球団から集まり、通常は「俺が、俺が」の世界になるところを、大谷選手のバントに象徴されるようにチームのため、日本のため、世界一になるために自分を抑え、それこそワンチームを作りあげたことは、後世に語り伝えられる素晴らしい功績となった。

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