ビートルズを論ずる

プロローグ
私は18歳の一番多感な時期にビートルズというグループを知り、ちょうど受験勉強の頃で家に缶詰状態になって得意の詰め込み勉強をしていた。
その時に、松本の本屋(当時、レコードも扱っていた)に嫁いでいた私の姉から、1枚のレコードを貰った。
“Meet The Beatles”という4人の顔が半分陰になっている有名なジャケットのレコードだ。
このレコードを勉強が飽きると聴いた。
1日に何回聴いたか分からないが、これを受験の時まで4、5ヶ月続けた。
英語の歌詞は全て単語を調べ、自分なりに曲の中で歌っている内容を把握し、段々一緒に歌うようになった。
この中の単語が受験の時に出て来て助かった思い出もある。
レコードは余りにも頻繁に聴いたため、盤が擦り切れ針を置くとザーというノイズがかなり大きく出るようになった。
しかし、この彼ら曲は次第に私を虜にしていった。

ビートルズの最初
それまで私はFEN(Far East Network=極東放送)で、アメリカのビルボード誌とかキャッシュボックス誌のミュージックベストテンの番組を毎週チェックしており、日本で流行る1、2ヶ月前には何回も聴いていた。

サーチャーズというグループの“ラブ・ポーション  No.9”という曲がアメリカで流行り、これはいいとレコードの発売を待っていたら、ラジオでこの曲が「恋の特効薬」という日本語のタイトルがついたことを知った私はレコード屋へ飛んで行き、「恋の特効薬ありますか?」と尋ねたら、女性の店員達が皆口を押えてクスクス笑い出した。
・・・早すぎて、未だこの田舎のレコード店には入荷してなかったのだ。

しかしそれから1ヶ月も経たないうちにこの曲は日本でヒットしトップとなった。
私がビートルズを知ったのは、FENチェックをしている時に、それまでアメリカ以外の曲は殆どランク入りしたことがなく、坂本九さんの「上を向いて歩こう」がスキヤキソングとしてこの2誌の1位に輝いた時にとてつもなく偉大なことをしたと思っていたのだが、ある時ランキングの1位から5位までがイギリスの今まで聴いたこともないビートル=カブトムシのような名前のグループになった時である。
そしてこの時点では曲の良し悪しとかは全く関係なく、ただただこの1位~5位独占ということに圧倒された。
その後、偶然にもそれほどあまり会う機会が無かった姉からのプレゼントで、ビートルズの魅力に憑りつかれていった。

独特のハーモニー
私が最も惹かれたのは、それまでの音楽とは全く違う世界観だった。
それまでのコーラスは、リードボーカルのバックにきれいなハーモニーを付けるのが一般的だったが、彼らのハーモニーは全く違っていた。
地声のぶつけ合いによる独特なコーラス、それと通常は伴奏のはずの楽器が前面に出て来て、声もギターもベースもそしてドラムさえもそれぞれが主張しているのだが、それがまたなんとも不思議なハーモニーに収まっていることだった。
演奏と歌声との縄張り争いをいしながら、誰というよりも4人それぞれが光り輝いている。 
そして、その歌詞がまたいい。
表現がストレートで、思ったままそのままの詞なのだ。
そういった意味では“I Want To Hold Your Hand”は、直訳すれば”あなたの手を抱きたい”だが、”抱きしめたい“というタイトルは非常によく彼らの詞のポイントを掴んでいる。
このストレートな詞の数々が、当時の私の純真な(?)心にドーンと入り込み、あの摩訶不思議なハーモニーが耳から離れなくなるのだ。

この時から、この歳になるまでずーっと彼らのファンを続けている。
それ以降、東京に出てからも次々に発売するレコード(当時はとても高価だった)を全て買い、毎日寝る前には必ずLPを1枚聴いてから寝るのが日課になった。
ギターを買い、彼らのような曲を作ろうとそれから10年近く作り続けたが、日本語の詞を付けると見事に歌謡曲となってしまい、彼等のような曲を作るためには、サザンオールスターズの桑田君のような英語だか日本語だか分からないような詞でないと難しい。
今でこそ結構うまく詞が付いているが、彼らのデビュー曲「勝手にシンドバット」の最初に買ったレコードの歌詞カードには、〇〇、××、△△といたるところに訳の分からない部分があった。
私はこれを見た時に、「あっ、汚ネーナー!やられた!」と思った。
あの曲から日本の歌は本来の日本語がおかしくなり、最近の詞がごちゃごちゃと羅列する曲に繋がっている。
しかし、“ビートルズのような曲を作る”・・という私の夢は、62歳の時に実現した。
私はたまたま相談した人の口車に乗って、使わなくなって何年も放ってあった会社のクリーンルームを100人程収容できる音楽ライブのスタジオに改装していた。

親父バンド=セルパップブラザーズ
私の音楽熱は、28歳の時に仕事が忙しくなり、それから以降40年以上は年末の忘年会でジュリーをやったりサザンをやったりエルビス・小林としてエルビス・プレスリーの衣装を着てカラオケを歌う位で、ほとんど休眠状態であったが、このスタジオができてしまったことにより少しずつ昔のビートルズ熱狂時代の感覚に戻りつつあった。
それから友人の還暦ライブをこのスタジオで開催した時に、「俺にも歌わせろ!」とビートルズの曲を歌ったことから完全に目覚め、その友人ともう一人音楽スキルの高い人が加わり、親父ロックバンド「セルパップブラザーズ」を結成した。
そして、私が作りたかったビートルズのような曲を作るべく、40数年ぶりに私が詞を書き、その音楽スキルの高い人に曲を付けてもらった。
その人は、私がちょこちょこっと適当に書き、曲が付いた後に修正すればいい・・・と思っていた詞にそのまま曲を付けてしまった。
これが「中小零細Q.C.D.」という曲で、中小零細製造業の悲哀と心意気を謳った曲だった。
当時、世の中はリーマンショックの影響で不況の影が忍び寄ってきた頃であった。
私は中小零細製造業が、デフレだ、インフレだ、円安だ、円高だと何かあるごとに真っ先に一番割を食う状態に憤りを感じていた。
しかし、我々中小零細企業はあらゆる困難な条件を乗り越えて逞しく生き残り、自分の持っている技術だけを武器に、将来に夢を持って進むんだという心意気も同時に詞に盛り込んだ。
このコンセプトがまず地方の新聞社を動かし、NHKテレビのプロデューサーに届いた。「中小企業の経営者たちがロックで吠える!」みたいな新聞記事を皮切りに、NHK長野放送局から取材の申し込みがあり、ニュース番組の特番に出ることになった。
結局この番組企画がうけたらしく、今度は東京のNHKが「おはよう日本」で取り上げることとなり、再度取材を受けた。
この時は関東甲信越のみだったが、地方版とは異なり、放映終了後に全く知らない人から携帯に家電に電話がひっきりなしにかかって来たのには驚いた。
その後再び、地元のニュース番組の年末スペシャルへの生出演の話があり、立て続けに3回のテレビ収録となった。
生出演というのはまさにそのまんまのため、いくら図々しい私でも非常に緊張した。
しかし、これは人間一生の内でなかなか味わえない貴重な経験となった。
その後、民報のテレビの取材を受け3ヶ月で4回テレビに出たため、これからどうなるか?と思ったが、結局は何にも無かった。しかしその後も曲を作り、このグループでは6曲、様々なコンセプトの曲を2人で作り上げた。
これが、私が20代にやりたくても叶えられなかった”ビートルズ”のような曲となった。

「中小零細Q.C.D,」
作詞:エルビス・小林
作曲・編曲:ギブソン・小泉
演奏・歌:セルパップブラザーズ

仕事が欲しけりゃQ.C.D 倒産いやならQ.C.D.
生きていたけりゃQ.C.D.
QQQQ CCCC QQQQ CCCC QQQQ CCCC D
中小零細は大変 (チェック チェック)
品質いいのは当たり前
安く安くコストを優先 
早く早く納期は厳守
だけど俺らにゃ技がある 
誰にも負けないテクがある
匠の技だよミクロンオーダー!

デフレ インフレ 円高 
バブル弾けて超不況 何があっても全部 しわ寄せ中小零細
金取り主義の「ISO」
形ばかりの「TQC」
あれダメこれダメ「ローズ問題」
スタイル重視の大企業
ベイビー! 「そんなの、そんなの関係ねぇ!」
      「そんなの、そんなの関係ねぇ!」

中小零細は大変
昼も無い夜も無い 休めない
危険、きつい、汚い 3K
オンボロ機械のオン・パレード

だけど俺には 夢がある 
誰にも負けない意地がある 
目指す技術は世界ナンバーワン!

日本のモノ造りは 中小零細の底力
決して大企業の 力なんかじゃないぜ 
オイラの技術は本物 誰にも絶対マネできない
何がタイだ中国だ インド ベトナムもいいけど 
そんなの そんなの関係ねぇ 全然全然関係ねぇ

セルパップブラザーズの民間テレビの映像☟

https://www.youtube.com/watch?v=v5c9IhGVM6g

NHKの映像☟

https://youtu.be/7FLpkXFx8sg?si=qq6YCRtB7m1e-Ox3

厳格なドイツで評価
私がビートルズに夢中になっていた18歳から20代前半の頃、大学に行っても「ビートルズのファンだ」とは言えなかった。その頃の日本でビートルズは、「あのグループはエレキをガンガン鳴らし、大声でがなり立て、髪の毛を伸ばした不良バンド」というようなレッテルを貼られており、いわゆるミイちゃん、ハアちゃん等の音楽だと馬鹿にされていた。
先般リバプールに行ったときに聴いた話だが、高校生だったその人が、ビートルズの日本公演を観に行ったのが学校にばれて停学処分になったということだから、その当時の様子は押して図るべきであろう。
そんなビートルズだったが、確かブラジルのジャズのメンバーが初めて彼等の曲を取り上げ、イエスタデイの後頃からクラシックの演奏家が演奏したりし始め、次第に彼らの音楽は素晴らしいモノだ・・・というような風潮が現れ始めた時は本当に嬉しかった。
ビートルズが、日本においてようやく市民権を得たということだ。
そして結局ビートルズというグループは、あの音楽的に厳格なドイツで、通常のポピュラー音楽とかロックとクラシック音楽の間にビートルズの楽曲という一つのジャンルが設定されたと聞き、彼らの音楽は私の感性での評価とは別個に、きちっと音楽の歴史にもその地位を築いたということだ。
ビートルズのレコードアルバムは全て買ったが、出るたびに必ず何らかの進化があった。特に後半なってくるとその進化はすさまじかった。
彼らはイエスタデイでストリングスを入れ、ジョージがインドのシタールを使ったのは有名だが、吹奏楽、オーケストラ、テープの逆回し、様々な電子音等々、その当時に出来ることは何でもやった。

5人目のビートルズ=ジョージ・マーティン
5人目のビートルズと言われるジョージ・マーティンというプロデューサーの存在が大きかったらしい。 彼のクラッシックの素養が、後半のアルバムにはかなり影響を及ぼしている。
ポールが、ジョンが、ジョージが持ち込んだ曲を、みんながそれぞれ自分なりの音で表現する。それとテープのトラックによる多重録音が凄い。
恐らく彼らにとっては、この多重録音は音楽の実験の場だったのではないか?と思う。
原曲に次から次へと様々な音を重ねていく。
「これを入れたらどうなる?」
「あれを入れたらどうか?」
4人+1のミュージシャン達は、面白くてたまらなかったのではないか?
その結果、「ラバーソウル」、「リボルバー」、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」、「アビー・ロード」と、次々とそれまでの音楽の壁を打ち破り、全く新しい世界を作り上げて行った。
ジョージ・マーティンはこのビートルズを使って、ロック音楽とクラシック音楽の融合を図ろうとしたのではないか?と思われる。
サージェント・ペパーズ…の構成は、アルバムそのものが一つの組曲のようなものとなっており、曲を繋げてみたり、オーケストラを駆使したりで、とてもロックの曲とは思えない仕上がりとなっている。特に「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」での「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」という曲などは、その構成、アレンジ、様々な効果音は素晴らしく、エンディングなどはオーケストラの楽曲のように聞こえてしまう。
バッハ、ブラームス、ショパン、ベートーベン、ビートルズと並べて歴史に残るような偉業だったのかもしれない。

私独自の視点
ビートルズについては、私独自の視点がある。
このグループの基本は、各自の個性ではないか?と私は思う。
冒頭でも述べたが、4人の各楽器、そして声はそれぞれに主張しているが、その個々の主張がなんとも言えないハーモニーを作り上げてしまうのがこのグループの最大の特徴だ。
通常、会社でもコーラスグループでも誰か中心となる人がいて、その人の思いとか考えでそのグループは進んで行く。
ところがこのグループは、特にジョンとポールという強力な個性と音楽的感覚を持った二人が、自分の個性をお互いにぶつけ合いながら曲を作り演奏する。
特にこの二人の声のぶつかり合い=ポールの甲高い声、ジョンの渋みの利いたちょっと低い声のぶつかり合い・・・この摩訶不思議なハーモニーが素晴らしい。

ビートルズ経営
これから今まで誰もやったことの無いビートルズと経営に関する考え方を述べたい。
まず一つ目
このグループはユニークであるという点だ。
ユニークというのは「人がやらない、人ができない」ようなことが出来るということだ。
当社ではこの「人がやらない、人ができない」コイルを造れと言っている。
そして二つ目
このグループは、次から次へとどんどん新しいモノを生み出して行く。我がセルコも、コイルを曲げる、圧縮する、成型する、というそれまではタブーとされていた製法を駆使し、これまでには無いモノ造りを実現してきている。
そして三つ目
前述したように、ビートルズのメンバーはぞれぞれの個性がはっきりしており、彼等が醸し出す音楽はその個性がぶつかり合い、それが不思議と上手く融合し、なんとも言えない不思議な調和を醸し出す。
当社の社名はSELCOと言ってSelf-controlの略、すなわち自分のことは自分でやれ、自覚を持て、自分の個性を出せ・・・と言うことであり、 当社の経営理念は英語で“Harmony & Prosperity in Self-control people”=”自らをコントロールし、調和と繁栄をもたらす”であり、自分を光らせながら自分の欲や自我を抑えることにより調和を見出し、その果てに必ず繁栄がある・・・というモノだ。
私は、経営は出来れば異質で個性の強い2人以上の人達によって行われるべきだと思っている。
過去を振り返れば、ソニーの井深大氏、盛田昭夫氏そして後から大賀典雄氏と、それぞれ個性が強く意見が違ったことも多々あったかと思うが、最終的には合意し、会社運営を進めたのだろうと想像する。 そしてホンダの創業者本田宗一郎氏は、藤沢武夫氏に代表印を渡して経営管理は託し、自分は技術開発に没頭したと言われる。
結局1人で出来ることは限られており、1人が2人、2人が3人になればそれだけ大きな仕事ができるし、異なった視点からモノが見えるのだ。
ビートルズでいえば、様々なサウンドが出てくるのだ。
我々中小企業の経営者は、ほぼ1人で考え、1人で決め、1人で会社の運営を進めているが、できれば自分には耳が痛いようなことを言ってくれる”モノいう社員“が居ることがその会社を更に発展させるポイントになるのかもしれない。
また、様々なアイデアや発想は1人よりも大勢いた方が間違いなく良い。
1つのアイデアをみんなで揉んで結論を出す・・・ビートルズの曲は1人が持ち込んだ曲を、イントロはこう、間奏はこう、エンディングは?等々、みんなで造り上げた結果がなんとも他の曲とは違う独特な曲となっている。

 そんな経営ができたら、これが正に「ビートルズ経営」と言えるのではないか?

私が経営者でいて、無類のビートルズファンだったことから、このような突拍子もない「ビートルズ経営論」が生まれたが、「様々な個性溢れるユニークな人達が集まり、それまでなかったような新しい技術や製品を生み出して行く」ことは、間違いなくこの多様化する現在における経営には必要なことだと思うのだ。
セルコとビートルズの違い?
その考え方やり方は似通っているが、発展・繁栄の速度、規模が全く違っているということだ。
しかし、このままの経営を続けていれば、時間はかかってもビートルズのように脚光を浴び、繁栄する可能性があるということは間違いない。

あとがき
ビートルズの”When I’m Sixty-Four”という曲で「僕が64になって禿げても、相手をしてくれるかい?」と歌っていたポールも今では81歳、ジョンは40歳という若さで凶弾に倒れ、ジョージは58歳で病死、リンゴは今83歳。
64歳・・・なんてとんでもない歳だとこの曲を聴いた時は思ったが、今私も77歳。
それこそとんでもない歳になってしまっている。
リバプールで、タイムスリップして一度は20歳の若さに戻ったものの、それもあっという間の1週間だった。
今日の朝、従業員から「会長はいつも元気ですねぇ―!」と言われ「いつもカイチョウだよ!」と答えたが、人間いつ最後を迎えるかは誰にも分からない。
臨終の時はできればビートルズの曲を聴きながら・・・と思っているが、“抱きしめたい”とか、“She Loves You”なんかだったらまた生き返ってしまいそうだから、せめてポールの“Let It Be”とか、“The Long And Winding Road”、ジョンの“Love”とか“Imagine”で安らかに逝きたいものだ!

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喜寿(77歳)

本日9月28日は、私の誕生日だ。
77歳になった。

通常は”楽隠居“の歳かと思うが、私はまだまだ現役。
それでもセルコの経営については息子にほぼ任せ、私は大きな問題、基本的な問題でひっかかった時だけ意見を言わせてもらう。
株式会社セルパップの社長、中国大連の総経理はそのまま継続してやっている。
それでも最近は水曜日をお休みにし、土曜日と2日間はマレットゴルフの日として女房と高速に乗って30分の坂城町の河川敷のマレットゴルフ場で友人と合流し、3人でプレーする。
マレットゴルフというのはパターゴルフをそのまま大きくしたようなスポーツで、クラブがスティックに替わりボールがプラスチックの10数cmのボールに替るだけで、ルール等はゴルフと全く同じ。
IN、OUTともにパー3、パー5がそれぞれ2ホール、後の5ホールがパー4となっており1コースが9ホールで勿論OBもある。 

この坂城町のマレットゴルフ場は大変整備された無料のコースで、コースは4コース36ホール、距離(全長2057m)もマレットゴルフにしては長く、短いホールで30m、長いホールで100m超、またそれぞれのホールが上手く設計されておりバンカーや池こそないが、微妙な傾斜や凹みで相当正確に打たないと狙ったところに転がせない。それと樹木が沢山あって、夏の暑い時は1ホールごとに日陰があり助かる。それに町できちっと管理しており、コースの芝刈りは草が伸びる時期はほぼ毎週やっており、コンディションは常に最高の状態となっている。
小諸の近くにもマレットゴルフ場はあるが、コースが短かったり、立地の関係で坂城のコース程良いコースは無く、毎週2回高速代を払って通っている。

昨日も水曜日で朝7時から約2時間強このコースでプレーした。
朝早いと殆どプレーしている人はいないため、この気持ちの良いコースを3人で貸し切り状態は更に気分がいい。
昨日の私の出だしは好調で、最初の2ホールはバーディースタートでハーフを32で回った。ところが後半、女房が100mのかなり難しいロングホールで、なんと2打で入れアルバトロス達成となってしまったのだ。
そしてその2ホール後のショートホールで、友人が今度はホールインワンを達成。
確かにゴルフよりははるかにスーパーショットが出る確率は高いが、マレットでもそう頻繁に出るものではない。
ホールインワンは3人で月に1度位出るが、アルバトロスは滅多には出ない。
これがポンポンと立て続けに出たので、これにはびっくりした。

こういうことがたまに起きるマレットは、そんなにスキルが高くなくても面白い。
このマレットが私の運動の基本であり、坂城に出かける時を除いた平日は、会社へ行く前に近くの公園のゲートボール場で毎日30分弱練習をしている。
その後は会社で従業員入り口、玄関周り、会社の前の通りの清掃を毎日欠かさずすることを私の運動の日課としている。

また、きちっと話ができる状態を保つためには喉を鍛える必要があり、今年初めから歌を本格的に基礎から習い始めた。
これがまた面白く、年齢にかかわらず声は出せば出すほど良く出るようになる。
そして、きちっとしたブレスとかリズムとか音程が合ってくると、自分で歌っていてとても気分が良い。また今までは高くてとても歌えなかったような曲が歌えるようになるとこれが更に嬉しい。
筋肉と同じように、喉も使わないとどんどん退化してしまう。
運動すること。
喉を鍛えること。
これが私の若さの秘訣かもしれない。

昨日は午前中マレットをやった後、午後からその喉を使いwebの講演会で講師を務めた。
ここでまた私は一つの特技を見出した。
私は講演で時間を気にしながらその内容を話すよりも、質問されてとっさに応える能力の方が遥かに高いということに気が付いた。
質問されその時の雰囲気で最も適切な解答を見出し、瞬時に答える。その臨場感とかライブ感がたまらなく心地よい。

色々とまた横道にそれたが、この歳になって先月はリバプールに行き、年甲斐もなく声が嗄れるまで騒いだり、マレットゴルフにのめり込んだり、70代の手習いで歌を習ったり、講演をしたりと好きなように生きている。
先般血液検査をしたら、様々な値が良い方に向かっている・・・と言われた。

今日のこの誕生日
健康に感謝である!

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イギリス リバプール ビートルズウィーク

ロンドンからリバプールへ

本当は3年前に行くはずだった。
あの忌々しいコロナ騒動によって、私のゴールデンエイジ(70歳から80歳の自由に使える時間)の1/3が失われ、このリバプール行きも延期されていた。
羽田から15時間、北極圏周りのJAL直行便でロンドン、ヒースロー空港に降り立った。
…と書くと格好良さそうに思えるが、実際はこのビートルズウィークに参加、演奏する日本のトリビュートバンド(コピーバンド又はカバ―バンド)の皆さんにくっついて行ったのだ。
まずは、ロンドンと言えばアビーロード。あのビートルズの傑作と言われる同名のタイトルのLPレコードと、4人が横断歩道を渡る写真はあまりにも有名。
一行11名は電車を乗り継ぎ、最寄りの駅からタクシーに分乗してこの憧れの地に行った。
なんの変哲もない横断歩道だが、車が途切れている間にこの横断歩道を大股で歩く姿を撮影する人が後を絶たない。映像に納まったとたんに、この横断歩道は貴重なビートルズ体験に変わるのだ。
女性のビートルズバンドHIPSの4人がいつの間にかステージ衣装に早変わりしており、車の往来の関係で何度も何度も繰り返して「4人の横断歩道写真」が撮れた。
また男性+紅一点の#4Dreamの5名も写真に無事納まった。

ロンドンからリバプールへは、イギリスの南東から北西へ斜めに横断するようなイメージだ。
2時間20分でリバプールに着いた。

古い赤レンガの建物が多いこともあるが、なんとも独特の雰囲気のある街だ。
石畳のような道が多いため、キャリーバックを運ぶのはちょっと大変!
ビートルズのホームグラウンドで、かの有名なマネージャー、ブライアン・エプスタインと初めて出会ったキャバーンクラブの付近に近づくと、あちこちから大音量でビートルズの曲が聞こえてくる。
益々気分は高まり、これは現実の世界から夢の世界への入り口だった。
私が泊まったホテルは、ハードディズナイトホテルと言って、外から中から全てがビートルズ一色のホテルだった。
各部屋のベッドの上に、大きなビートルズのメンバーを中心とした写真が掲げてある有名なホテルである。
私の部屋は、ポールとジョージがマイクに向かっている写真だった。

困ったのはコンセントが一箇所しかないということ。 PC、スマホ、スマートウォッチ、翻訳機、Wi-Fi機と全て充電が必要な機器だらけで、コンセントが一つしかなかったということと、持って行った分配ボックスの電圧変換のコンセントが繋がらず、これには困った。

それにしても初日のスケジュールは過酷だった。
ロンドン、ヒースロー空港に着いたのが朝6時台(日本時間午後2時台)、そこからユーストン駅に向かい、タクシーに分乗し、アビーロード。アビーロードの後はサンドイッチを食べてから一路リバプールへ。ホテルに着いたと思ったら1時間もしないうちにカサバツアーと言って、ビートルズが結成前のクォーリーメンというグループが演奏していたというパブの見学ツアー。終わって食事してホテルに戻って9時頃(日本は朝の5時)。

8時間の時差というのはきつい。
いつ寝るべきなのか?いつ食べるのが良いか?眠いのか?お腹が空いているのか?よく分からない。
結局、寝そびれたり、食いそびれたりするのだ。

カサバツアー

カサバツアーで面白い話を聴いた。
このクラブの改装を手伝うことになったメンバーのジョージ・ハリソンが、この改装にあまりにものめり込み過ぎて練習そっちのけで改装に打ち込んでいたため、メンバーのリーダーがジョージに腹を立てここでの演奏はやらないという話になってしまった。そこで困って、たまたま見つけたメンバーがジョンとポールだったという話だ。
後から考えれば、“人間万事塞翁が馬”であり、何が禍で何が幸いなのか分からない。
誰も、このグループが後に偉大な音楽グループになるということは想像も出来なかったからだ。

キャバーンクラブでの応援

翌日の午前中は休み。
日本との時差との追っかけっこで、朝起きてから午前9時(日本の午後5時)までが、コンタクトが取れるタイミングだ。逆にいうと、その後のメールは明日まで読まれない。
Wi-Fiの関係で、スマホのラインも、国内のように調子よく会話形式にはならないし、添付の写真もなかなか日本まで届かない。動画などは全く無理だ。
午後は一緒に日本から来たグループ、#4DREAM(フォードリーム)のキャバーンクラブでの最初のライブだ。
同行した応援グループから赤や黄色のぼんぼりや、グループ名や日本の国旗の入った小さなウチワが配られた。
演奏前は多少スペースがあるが演奏中は、狭いホールはどんどん詰まってくる。
いつの間にか私もその最前列で応援することになっていた。
遠い異国の全く知らないところで、何も遠慮することは無い。
それも知らない曲は無いビートルズの曲だ。
一緒に歌い、叫び、手拍子し、踊りまくりながらの応援。
スピーカーの真ん前で、いくら大声を上げても、全く自分の声が聞こえない。
演奏45分間、アンコールを加えて+αの時間、汗がにじみ出て来て、最後は汗だくになる。
こちらが終わると、既にもう一つの女性グループHIPSの演奏が違うフロアで始まっているから息継ぐ暇もなく駆け付け、今までの勢いそのままに応援する。
とても77歳の喜寿のおじいさんとは自分でも思えない。
終始禿隠しの帽子をかぶっていたから、他の人にはなおさらだったと思う。
結局最後の最後まで、1日4回×4日間このスタイルで通した。
演奏は?というと、日本の数あるビートルズバンドの中から選ばれ、世界の檜舞台で全く引けを取らず両グループ共、堂々と決してうまくはない英語でジョークを飛ばしながらの演奏は見事である。
お客もその辺はわきまえており、国がどこの国であれ、それぞれ惜しみない拍手を送る。
そんな中で、更に盛り上げようと我々応援団は、必死で身体を揺らし、旗を振り、声を上げるのだ。

近郊散策ツアー

二度ほど、バンドの人達も一緒に近郊ツアーに出かけた。
全てマニアックである。
まずはポールの家を見た。そこからジョンの家まで、ポールが毎日通った道を歩くというツアーで、これはなかなか良かった。
ゴルフ場を突っ切り、殆ど緑の中を歩く。
気候的にも、軽井沢で散歩しているようなイメージだ。
ポールがこの道を歩きながら書いた曲もあるとのこと。
偉大な芸術家は、やはり自然豊かな地で育つのだと勝手に解釈した。
ジョンの家・・・と言ってもジョンは幼い頃にお母さんを亡くし、お父さんは船乗りでジョンを置いて去り、おばさんの家で育っていた。
そのジョンの家で、みんながそれぞれ写真を撮り合い、それなりに時間がかかった。

次の日はジョージの家にも行った。
ポールとジョージの家は長屋の一角で、大分下層階級の様子だ。ジョンの家は一応門構えのある1軒屋だから、多少上か?
いずれにしろ、イギリスの貧しい生まれ育ちの青年達が、やがては世界を席巻するミュージシャンになって行ったのだ。
ジョンがよく遊んだ道、ジョンが木に彫ったイニシャル(良く解らなかったが・・・)、仲間とよく行ったパブ等々…
その中でも有名なのがジョンとポールが出会った教会であり、ここでジョンがポールのギターのうまさに惹かれたということだ。
この教会のホールで、我らがビートルズのメンバーポール役のteaさんがギターで歌い出した。
続いて、紅1点のエリさんがピアニカで加わり、ジョン役のずーさんがさらに加わった。
これは素晴らしいパフォーマンスだった。

音楽ほど、人の心を和まし心を通わせ合うことのできるモノはない。
ジョンとポールの最初の絆がこのようにして生まれ、育って行ったのだろう。
その他、歌に出てくる街ペニーレーンでは、歌詞の床屋や銀行のあった場所をみんなで追った。
翌日のストロベリーフィールズは、すっかり商業施設になっており、有名な赤い門で替わり番手に写真を撮ったり、お土産を買ったりした。
この建物の中には、ジョン・レノンがイマジンを作ったピアノが置いてあった。ビデオに出てくる白いピアノはビデオ用のもので、これが本物だと案内の人が強調していた。

ツアーが終わると、またライブ応援である。
会場がちょっとリバプールの町から離れたホールとなり、普通の劇場スタイルの場所での演奏はちょっと観客数が足らず、ここは我々応援団が頑張らなければならない。
結局、私も舞台袖まで連れて行かれ演奏者の前で踊りまくることになった。
あちらの人は結構一緒に音楽を楽しもうとする人が居り、一緒に踊り会場を盛り上げてくれた。
その帰りにツアーコンダクターの人達と一緒だったため、どこか美味しい店に連れてってもらえないか?とお願いし、何件か覗いた結果中華料理店に連れてってもらい、ここでイギリスに来て初めて料理らしい料理が食べられた。
次の日も今度はイタリアンの店に案内してもらい、ここもなかなかの味で満足した。

55年前の学生時代の最後に、当時は「洋行」と言われ円も今よりもはるかに安く、なかなか簡単に行けない時代に親のすねをかじりヨーロッパ9ヶ国旅行に行った際、ロンドンに行った。
その時の印象でイギリスの食事は上手くないと思っていたが、中華料理とかイタリアンであればそれなりに美味しいということが良く分った。

アナログズ鑑賞

2日目に、ホテルから結構離れた場所にフィルハーモニーホールという大きな劇場があり、そこでアナログズというビートルズのトリビューバンドで有名なバンドの演奏があったが、これは素晴らしかった。11人くらいの編成で、その名の通りビートルズはスタジオ録音だけでライブは一度も行っていないような、後半のアルバムの難解なテープ逆回しのような曲等を、チェロやバイオリンで再現しそれがまためちゃうまい。
通常、ビートルズのトリビューバンドは誰がジョン役で誰がポール役と決まっていて、それぞれそのパートしかやらないが、このグループは5人のボーカルがおり、結構適材適所で歌い、それが皆抜群に上手いからたまらない。
思わず身を乗り出して聴き入ってしまった。

道に迷う

大変だったのはこのコンサートの後、既に夜中の1時をまわっており、毎日9時に寝る私にとしては少しでも早く帰りたかったため、先に出て行ったグループの人達を追った。
ところがホールを出た途端、突然の大雨で雨宿りをする他無く、あちらの酔っ払い数人と、既に閉まっていたレストランの軒先で訳のわからない酔っ払い英語を聴きながら小降りになるのを待った。
ようやく小降りにはなったが、先に行った仲間の人達はどこにもいない。
来た道を帰ることになるが、全くの方向音痴で、来た時はグループの人の後をついて来ただけで断片的な記憶しかなく訳がわからない。
それでもどうにか歩いて行くと、確かに通ってきたような道があり、とにかく歩けばどこか見覚えのある場所に行けるだろうと、グーグルマップは例のWi-Fiが充電不足で使えないので持っていた地図を頼りに歩くのだが、自分がどこにいてどこへ向かわなければならないのかさっぱり分からない。
結局40分くらい小雨の中を傘もなしに彷徨った。
気持ちに余裕があれば“真夜中のリバプールの散策”ということでもいいが、なにせ早く帰って寝たいという焦りがあるから、ただがむしゃらにみじめな気持ちで歩いただけだった。
閉まりかけていたレストランがあったため、店仕舞いをしていたおじさんに雨に濡れてボロボロになった地図を指さして、ハードディズナイトホテルを連呼したが、地図ではわからないらしく、このおじさんはスマホで検索してこの道を下り、突き当りを右に行き、SMBC銀行を右に曲がれば良いと教えてくれた。
多少不安はあったが、その通りに歩いたらホテルがあった。
これで約1時間弱の“夜の小雨のリバプール恐怖の彷徨(さまよ)いツアー”を終えたのだった。
次の日は朝9時から例のジョンやポールの家の散策ツアーがあるため、とにかく早く寝る必要があった。結局この日は夕飯もなし、次の日の朝食は土曜日で9時に開くレストランは間に合わず食べっこ無しで、寝る時間も食事もままならない2日目だった。

悲惨な最終日

とにかく毎日があっちだこっちだとスケジュールに追われ、時差ボケと不規則な食生活を背景に、ライブの応援となると20代の若さに戻って目一杯声を出し、身体を揺する毎日はいわゆる「ハイ状態」となっていたのだと思う。
リバプール最終日はこのツアーのファイナルディナーで盛り上がり、その後我らがteaさんが「一人Queen」といって、ギター1本でQueenの映画「ボヘミアン・ラブソティー」で有名になったあのライブエイドの曲をカバーした。それも素晴らしく張りのある声量、完璧なリズム感、卓越したギターテクニックでのカバーは何回聴いても感動モノだ。
映画「ボヘミアン・ラプソティー」が大ヒットして、Queenブームが沸きあがった5年ほど前は、あっちこっちのライブハウスで引っ張りだこ状態だった。
そのteaさんがビートルズの本場、ビートルズの祭典の会場で、これまたイギリスのスーパースターのQueenをやるという他の誰もできないパフォーマンスは、今回の最後にして最大のイベントだった。
私はそのファイナルディナー後、スマホをホテルに忘れていたためちょっと取りに帰ろうとホテルの部屋に戻った。
疲れがピークだったため、ちょっとだけ休もうとベッドに横になった。
…そして目が覚めた時はライブは既に終わっていた。
狂乱の5日間、その最後を大声援で大盛り上げにして締めくくろうと思っていたスペシャルイベントを、なんと疲労困憊のため見逃すという何とも情けない締めくくりとなってしまったが、まるで別世界の「夢」のような5日間はこれでTHE ENDとなった。

ロンドン観光をして帰途に就く 

翌日は近くのスーパーや地理についてもようやく分りかけてきたこの街、コンセントが少ないハードディズナイトホテを後にしてタクシーで駅に行き、電車でロンドンに向かった。
一晩泊まり、翌日は4人のグループでロンドンの観光に行った。
お決まりのバッキンガム宮殿の衛兵交代は時間に遅れて観るチャンスを逃したが、行進は観ることが出来た。ウエストミンスター寺院と、新装となったビッグベン、ロンドンアイという観覧車でロンドン市内を一望、そしてタワーブリッジと、定番の観光地を見て回った。

夜7時半のロンドンヒースロー空港発のフライトであったが、全員大分早めに空港に向かい、帰りはイギリスから日本に向けて一直線のコースを取ってやはり15時間のフライトとなった。
バンドのメンバー、そして応援随行の人達、ずっと一緒にいると自然と親交が深まり別れるのが寂しい状態になる。
また是非会いましょう、とそれぞれ別れを告げ、帰路に就いた。      

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