会長の部屋:お茶にしますか?コーヒーにしますか?(報道ステーション)-

先日テレビで、養老猛さんと古舘伊知郎アナの対談の場面があり、養老さんの日本人と西洋人の違いに関する決定的な違いの指摘があって、これはとても面白かったし、私が主張する世界の中で特別の存在としての「日本人」を説明するには大変有効な話だと思った。

西洋人が良く「お茶にしますか?コーヒーにしますか?」と訊くが、これは日本人が聞くと、自分の好みを訊いてくれる「おもてなし」の一種と捉えるが、実は違うのだという。

これは、「あなたにはお茶にするか、コーヒーにするかを選ぶ“権利”がありますよ」と言っているという。

西洋人の”I am a boy”の”I”は日本では要らないが、英語では必ず”I”がついて回り、その人の主体の存在を主張するものだ・・と云う事なのだ。

日本では「行って来ます!」「只今!」と言って、決して「私が」を付けない。

「私が」は分かりきったことだから、必要がないのだ。

 ここに西洋人の「自我」と日本人の「無我」の意識との大きな差が出て来るというのだ。

 但し日本人はこれまで“滅私奉公”、“一億玉砕”、“本土決戦”と自分を殺しても会社のためとか国のため・・と極端な“無我”に走っていたことの反省と、西洋風な考え方の浸透に依り、最近の日本人はかなり「我」を意識した言葉や行動が多くはなってきているが、日本人のDNAそのものはそう簡単には変わらない。

 逆に西洋の方が最近では、日本的、東洋的な自分中心ではなく、全体のことを考えて行くような考え方になびきつつある・・と云う話もあった。

このような話から、私の主張する「日本は世界平和を唱えられる唯一の国」・・・と云う事が真実味を帯びて来る。

 西洋的な「我」を主体とした生き方の先には、必ず「戦い」「争い」がある。自己を主張し、双方が譲らなかったら間違いなく、その先は「争い」なのだ。

ところが、日本的な考え方で行くと、争いはまず起きない。

「無理が通れば、道理が引っ込む」的な主張の強い人の意見が通ってしまう(今の安倍首相)という弊害もあるが、総じて日本人は争いを好まない。

 この様な生き方、考え方が世界に広がれば、世界から争いが無くなり、戦争が無くなる可能性があるということで、私はこれまで「日本は世界を変えるべき国であり、武器を持って戦う国になってはならない」と言ってきたのだ。

 今回の養老猛さんのお話は、この私の主張を裏付けるものであり、またしても私の「直感」は脳科学的にも裏付けが取れた。

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