これより、数回に亘りこの「夢のカナディアンロッキー大旅行」を掲載します。
1、プロローグ
8月23日の深夜、正式に言うと8月24日午前0時半羽田発、9月5日の午後10時羽田着のデルタ航空便で、私共夫婦と同じ長野県の松本に住む姉、そしてタイバンコクに住む兄夫婦は我々よりも一日早くバンクーバーに着いており、また帰りも我々より一日多くアチラに滞在して帰るため、兄弟夫婦プラス姉の、気持ちは未だそれぞれに若いが、72歳の姉から62歳の私の妻までの高年齢のグループによるバンクーバーからカナディアンロッキー、そしてビクトリアへの旅をしてきたのである。
我が人生に於いて最長にして最大の「夢」の大旅行であった。
いい映画には必ず”伏線”と云うものがあり、その主人公がどうしてそんなに危険なこと、あるいは特別なことをしなければならないか?とかという理由付があるものである。
我々の旅行にも勿論、その伏線があった。
事の発端は今年の4月末にタイの兄の会社の20周年記念兼私の兄の古稀のお祝いであった。
私ども夫婦と私の姉の私達3人は、そのお祝いの席に呼ばれタイバンコクのゴルフ場で開かれたパーティーのその場に居た。
そのお祝いの席で、兄の会社の息子でありタイの会社TITelectoronics社の現社長である幹佳(ミキヨシ)社長から、兄夫婦に”カナダ旅行”がプレゼントされたのだった。
このカナダ旅行プレゼントにもまた伏線がある。
今から約20年ほど前までの10年間、この兄夫婦はカナダのバンクーバーに住んでいたのである。
住でいたと言っても、奥さんと二人の子供は完全に移住し現地暮らしし、兄は当時は私の今の会社セルコの社長であったため、1ケ月の半々を日本とカナダに住むという暮らしをしていたのである。
であるから、二人の息子と娘は英語は堪能、奥さんも日常会話には殆ど問題無いくらいに話す、私の兄は今もタイにその後20年住んではいるが、タイ人とは単語を並べて会話をするが現地の言葉を覚えようとする気が全く無いため、英語も勿論話さない。
海外で個人旅行をエンジョイするポイントは、ある程度、現地で会話ができることが必要最低条件となる。
必ずと言ってよいほど、何らかのトラブルが起きるからだ。
この”カナダ旅行プレゼント”と云う話には、当然の如く、我々3人も便乗しようじゃーないか?という話が持ち上がった。
兄一家が約10年バンクーバーに済んでいる間に、未だ存命の私の両親、64歳で病気で亡くなってしまった私の一番上の姉も数回に亘ってバンクーバーに行っていたが、私は当時全くの”仕事人間”であり、社長が半月居ない会社を守り、運営しなければという意識が強く、また2年間だけではあったが当時のセルコの従業員が4名ずつ選抜され、バンクーバー旅行をしたりしていたが、結局私は一度も行かなかったのである。
また2番目の松本の姉は、その頃旧家の姑に使えており、旅行どころかなかなか実家にも帰してもらえないような非常に過酷な生活を強いられていたため、当然バンクーバーには行けなかった。
更に、このメンバーでの旅行には伏線がある。
一昨年の12月末にこのメンバープラス従妹の女性の6人でオーストラリア・シドニーに年末大晦日の花火を見に行こうということで、オーストラリア旅行を経験しており、その旅行がハプニングも色々あり、大変面白かった・・・と云う好印象な体験があった。
これらの”流れ”からすると、当然このグループによるカナダ旅行はあり・・・と言うことになる訳である。
また、カナディアンロッキーは、兄も10年間で10回ほど行っており、どこにどう泊まり何を見たらよいかを熟知している訳である。
早速5月頃から計画が始まり、行ってから3日間のバンクバーと帰りの3日間のビクトリアへの移動はレンタカーで対応、カナディアンロッキーへは、兄の知識と旅行社との綿密な打ち合わせの上の行程が組まれ、6月にはほぼホテルや航空券を抑えて、この旅行に臨んでいた。
しかし人生どこに何があるかは分からない。
女房の大腿骨骨折と手術で旅行がピンチ
7月20日、ここ数年毎年恒例となった、北海道札幌に住む私の平塚という友人のところに昨年見事北海道の山を最後に100名山登頂の偉業を成し遂げた神奈川に住む宗本夫妻と我々夫婦も合流し、3夫婦プラス平塚君の友人の7人でイタリア人の経営するとても美味しいイタリアンレストランで、大ワインパーティーをするということになっており、今年も私は女房と共に北海道旅行で、昨年は旭川、美瑛を中心にレンタカーで回ったが、今年は平塚夫妻が積丹半島を自家用車で案内してくれるということであった。
”積丹ブルー”と云う非常深く濃いブルーの海を満喫、またすぐに売り切れてしまう”うに丼”を堪能し、平塚夫妻がお奨めの民宿に泊まり、これまた海の幸満載でとても食べきれない料理を堪能し、風呂に入って寝ようとしていた時、事件は起きた。
私に次いで3階にあるお風呂に行った女房の叫び声が、二階の隅の部屋で寝始めていた私の耳に飛び込んだ。
「お願いです!」「誰か来てくださ~い!」と悲痛な叫び声に私は驚いて三階の女子風呂に駆け上がって行った。
そこには女房が倒れていて、どうやっても起き上がれないという、風呂場と云うとどうしても風呂場の中かと思ってしまうが、女房はお風呂の入り口が真っ暗で電気のスイッチを探して30センチくらいの段差に気付かず、足を救われ大転倒をしてしまったようだ。
私は即、民宿の人を呼び救急車を要請し、救急病院に運ばれ、レントゲンの結果、”大腿骨骨折”と云うことで、私が見ても明らかに骨の一部が粉々で無くなってしまっていた。
結局20日に小樽で転んで骨を折り、2日後札幌に移動、手術は24日、この間、たまたま平塚君の友人の従兄が札幌でも有名な整形外科病院の副医院長だということで、色々便宜を図ってもらい24日に手術ができた。
手術の前に恐る恐る担当医に聞いたら「カナダ旅行?それは無理です!」というそっけない答え。
私は諦めかけて松本の姉にその旨を伝えると、姉は「それは一人で二週間も残して行くのはかわいそうだから、車椅子でもいいから是非連れて行くように・・・・」「お母さんも車椅子でハワイまで行ったことがあるから大丈夫・・・」との激励のお言葉・・・。
本人に言ってみたら、本人も行きたそう。
そこで、お医者には内緒で、そのまま連れて行こうということになった。
この大腿骨骨折というのは、年寄りに多く、殆どが骨粗鬆症の人が多いとのことであったが、女房の場合は骨は正常であり、相当の転び方をしたのだろうと先生が言っていた。
この手術は、最近の技術が大分進歩し、骨の代わりにチタン合金を体内に入れるが、ギブスとかの必要が無く、手術の翌日からリハビリができるということだったが、女房は数日おいてからリハビリが始まった。
それが、一度も「痛い」という言葉が発せられず、最初は車椅子、その後は歩行器、そして数日後には何もなしで歩けるようになっていた。
2週間後、札幌から小諸の病院に移る時も、かなり大げさに車椅子レベルの移送計画を立てていたが、結局は余り必要が無かった。
小諸の病院の診察の結果、かなり回復しているとのこと。
62歳という年齢からすると、結構筋肉が付いており、転倒後の全ての処置がベストであったというお褒めの言葉を戴いた。
普段、私と共にジャズダンスを習い、カーブスという女性専門のフィットネスクラブに通っている効果が出たのかも知れない。
それにしても、先生には「この月の23日にはカナダに行きたい」とはなかなか言い出せず、結局女房が直談判して2週間後の8月17日に強引に退院してしまった。
それから一週間もしないうちのカナダ旅行である。
娘や息子、札幌の友人達からは、「無謀だ!辞めた方がいい!」との声が上がったが、殆ど払い込みも済んでおり、キャンセルも大変なため、そのままカナダ旅行へなだれ込んだ。
行く前から”波乱含み”の夢の大旅行であった。