ワールドカップと寝不足の日々

アルゼンチンとフランスの激闘が終わり、ワールドカップはアルゼンチンに輝いた。
それにしても凄い戦いだった。
解説者も、興奮気味に「これまでには無い決勝戦でした!」と絶叫していた。

私は、通常夜9時に寝て、朝3時に目が覚め4時頃からゴトゴトと動き出す。
カタールと日本では6時間の時差がある。
カタールの午後6時のキックオフは日本の深夜0時、午後10時は朝4時ということになる。朝4時は私にとってのゴールデンタイムとなる。テレビの大画面を占領できるからだ。
最初のうちは日本の試合を中心に、前日10時からでも深夜0時からでも、録画をしておいて4時ごろから、結果を知らずにワクワクしながら日本の試合中心に観ていたが、決勝が近づくにつれ、だんだんのめり込んで行き、やはりリアルタイムで観たくなった。
そうすると、朝の4時は良いのだが、深夜0時に始まる試合が大変だ。
夜、7時とか8時に寝て、12時に起き、夜中2時まで観て、2時から5時過ぎまでまた二度寝するのだが、これが結構年を取ったこの身にはつらい。
そんなことで、寝不足の日々が大会終盤の1週間程続いた。
そして最終戦、アルゼンチンとフランス、メッシとエンバぺの一戦となった。
私は、たまたま観ることが多かったフランスのエンバぺ選手を応援していた。
そして、ちょっと寝坊して、0時20分頃起きてきて見始めたが、既に1点アルゼンチンがリードしていた。どうもメッシがペナルティーキックで1点取ったようで、5対5だった得点王の座はメッシに大きく傾いていた。
そして、私が未だ色々飲み物とかを冷蔵庫を漁っている間に、さらにアルゼンチンに得点が入ってしまった。

それにしても、フランスの方は全く精彩がない。
殆ど諦めかけていた後半3、40分を過ぎたところでドラマは始まった。
エンバぺのペナルティーキックだ。
エンバぺの表情が画面に大きく映される。
緊張の瞬間!
凄い勢いでネットの左サイドにボールが突き刺さった。
1点返した。
ここから局面が変わり始めた。
そして、圧巻だったのは、エンバぺのシュートの凄さだった。
左のかかとで支えながら、身体を捻ってのボレーシュートはすさまじかった。
後半ぎりぎりで同点となったのだ。

このまま行くと逆転か?

と思ったが、アルゼンチンもそう簡単には点を入れさせない。
結局、延長戦となった。

まもなくメッシの2点目のゴール。
これで決まりかと思ったら、ゴールキック内でエンバぺが蹴ったシュートが相手選手の腕に当たり、ハンドでまたしてもペナルティーキック。
エンバぺはこれを難なくまたしてもゴールネットの左隅に蹴りこみゴール。
何とワールドカップの決勝でハットトリックをやってのけたのだ。
結局、試合はPK戦となり、4:1でアルゼンチンの勝利となった。

この時の最初に蹴ったエンバぺは、冷静に正確に間違いなくゴールした。この人の精神性が凄いと思った。いくら大選手と言えども、3度に一度くらいはミスをするかと思ったが、全く動ぜずに3球とも全く同じ左隅に蹴りこんだのである。
アルゼンチンの36年ぶり3度目、35歳のメッシ最後と言われるワールドカップでの優勝であった。
カメラは選手、監督、スタッフ、家族と歓びで抱き合うメッシの姿を追う、時折落胆し悔しさを滲ませるエンバぺの姿が対照的だ。
しかし、このワールドカップ、シナリオとしては最高のシナリオだったのではないか?と私は思った。

「メッシは14歳で家族とともにスペインに渡って、バルセロナの下部組織に入り、17歳でスペイン1部デビュー。10度のリーグ優勝、4度の欧州CL制覇、7度のバロンドール受賞と欧州で数えきれないほどのタイトルを手にしてきた。しかし、アルゼンチン代表としては2014年ブラジルW杯の決勝で敗れるなどタイトルに見放され続け、<母国への忠誠心はないのか>と手厳しい批判にさらされた。」
このメッシが悲願の栄光を手に入れることができた。

フランスはアルゼンチンにPK戦の末に敗れ、34、38年大会のイタリア、58、62年大会のブラジルに次ぐ史上3チーム目の連覇はならなかったが、エンバぺは今回のワ―ルドカップ決勝で初のハットトリックのおまけつきの最高得点(8点)王となった。そして未だ23歳、未だ先が大分ある。
そして、PK戦での負けということで、一応90分の試合の中、また延長戦30分では負けなかったという”言い訳“もできる。
そこへ行くと、日本もPK戦でクロアチアに負けたのだから、今回の実力はブラジル以上…ということにならないか?

結局、2時に終わるはずの試合が3時近くになり、その後の表彰式もついつい観てしまって、朝まで1時間程の仮眠。
…という訳で、とにかく今日は寝不足なのである。

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23日に「シン・メイド・イン・ジャパン」が発刊されます!

着想より1年と5ヶ月を要し、ようやく私が書いた2冊目の本(本当は3冊目)「シン・メイド・イン・ジャパン」が発刊されることになった。
この本、とにかく普通だったら3冊分のボリュームに達する量を書きまくり、出版社との打ち合わせの中で、上下巻の二冊にするか?と言われたが、まさか全く知名度のない私が上下二巻の本を出しても、だれも読まないだろうと、かなりの部分を削りに削り、ようやく280ページ弱の一冊の本に落ち着いた。

内容については、いつも私が言っていることを纏めた本だが、お金を戴いて売る本だから、それなりに様々な取材をし、私の考え方の裏付けを取った力作となった。
その裏付けとなる本を取材していると、その本についつい吸い込まれ、本の解説本のような記述になり、出版社から、「これじゃー誰の本か分からない」とか指摘され、この本の解説については、かなり削るのに苦労した。
また、私のいつもの言い放題、書き放題の記述も、出版社から、「これはちょっと・・・」と咎められ、結構削った。
だからという訳ではないが、かなり一般性(?)があり、濃縮された内容となっている。

昨今のテレビや新聞、ネットを見ていると、国力低下で、給与所得が、韓国平均を下回ったとか、GNPがドルベースだと4位のドイツに並んだとかと言われ、国際社会の中で全く精彩が無い日本。
円安が進み、ドルが120円、130円と来て、とうとう140円を超えるという本当に情けない状態。
タイミング悪く、イギリスのエリザベス女王の荘厳にして盛大な葬儀を目にしながら、安倍首相の国葬をこれからやらなければならない日本は「みじめさ」さえ感じてしまう。

そんな日本が再び、世界の中で光輝くのは『モノ造り大国』しかない。
これは何もヤケになって、根拠もなく言っているわけではない。
日本人という世界の中で稀に見る真面目で、DNAレベルで協調性があり、一つのことに集中し、コツコツコツコツやり遂げる特性のある国民性を見据えた上での話なのである。
そんな日本がモノ造りで世界に乗り出すには、生半可なことではダメだ。
大メーカーは、溜め込んだ内部留保を吐き出し、日本にこれ以上ないというような自動機、ロボットを駆使したスーパーモノ造りのラインを造ることだ。
また、日本の中小零細製造業の類稀なモノ造り技術を駆使した部品をそれなりの価格を出して使うこと。そして中小に資金援助してでも、その職人芸的な匠の技の自動化を促進させることだ。(中小の技術を貰おうというのはダメ、継続的な改善につながらない)
これが実現すれば、他の国が、どんなに資金を突っ込み、人材を投入しても、絶対に追随できないスーパーラインが構築できるはずである。
これを各産業,各製品でどんどんやること。
そして国内はもとより、世界中に充分付加価値を付けて売り込むこと。
これが進めば、間違いなく日本の国力は上がる。
「円安」は、正に今の日本にとっては追い風である。
これらの部品を供給する中小は安定的で、それなりの価格を確保でき、従業員にもそれなりの給料を払えるようになり、大企業は、世界中に安全、安心、壊れず、特性が良く、使い勝手が良い製品を拡販することによって、これまた安定し、高付加価値製品による高収益を得て、従業員の給料をどんどん上げることができる。
わたしのささやかではあるが、経営上の経験を述べるならば、溜めているお金は、会社の状態が悪くなれば、あれよあれよという間に、どんどんなくなっていってしまう。
今大企業がすべきは、「未来への投資」であり、今までにはないような最先端で新規性のある国内設備への投資であり、それを実行する人達=従業員への投資なのである。
これを「シン・メイド・イン・ジャパン」と呼ぶ。

この本はこの23日に本屋(配本の関係で多少遅れる可能性あり)で発売され、またアマゾンの電子書籍は即日から売り出します。
27日には日経新聞の4面に公告が載る予定です。
ぜひみなさんお買い求め戴きたいと思います。

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イタリア珍道中

このブログも、長い間お休みしていました。
私が丸1年かけて、本を書いていたことが最も大きな要因です。
本の方は、ようやく出版社の校正段階に入ってきております。
今回も、結構面白いと思います。
今の日本に一番欠けているモノを書いたつもりです。
「何か?」
とお尋ねですか?
それは、やはり「モノ造り」でしょう!
どう考えても日本には、モノ造りしかありません。
その辺のところを詳しく書いてありますから、出版されたら、皆さん是非お買い求めください。
時間をかけただけあって、大分長い本になってしまい、結局、後半を殆ど削って、一冊にしましたが、上下巻となるところでした。
これから校正、修正等がありますから、発刊は7月か、遅くとも8月には間違いないかと思います。
ご期待ください。

さて、今日は、たまたま友達とラインで色々トークしているうちに、6年前一緒に行ったイタリア旅行の話になり、懐かしくなり、その時書いたエッセイを読み返したら、我ながらこれは傑作、非常に面白く、一般の人にも充分読み応えがあるかと思い、私のブログに載せてみようと思いました。
とても長いのですが、とにかく面白いため、とにかく読んでみてください。
この次から、ちゃんとした現在のブログを書きます。
宜しくお願いいたします。

イタリア珍道中

小林延行

プロローグ
「どんなに有名な五星のレストランへ行っても、一人だったり、気を使う人と食べたのでは美味しくない、とにかく気の合った仲間と食べるのが一番です」・・・・笑いの健康法師 として全国で講演して歩いている産婦人科医の昇幹夫先生の言葉である。
私もそのとおりだと思う。食事にしても遊びにしても、仕事にしても、楽しい仲間と共に過ごすこと程、人生を楽しくするものはない。
今回のイタリア旅行は、そのような観点からしても、非常に愉快で楽しい旅行であったと思う。
この旅行のメンバーは、私と私の妻の京子と私が以前勤めていた会社の同期の平塚氏とその友人で今では「友達の友達は皆友達」・・かなり親しい間柄となっている宗本さんの四人である。
妻は、私の会社に勤めている関係上、どこへいっても一緒である。最近は「結いの里」関係のニコニコマネーもジャズダンスもヨガも農作業も殆ど参加するため、まず出張とトイレと風呂を除けば、ほとんど一緒に過ごしている。
平塚氏とは、今から36年前に神田通信工業という電電ファミリーの中堅7社のひとつだった電話機のメーカーへ私が就職した時の同期である。
今は、二人ともその会社は辞めてしまったが、私と彼とはそれ以来の付き合いであり、特に私の技術顧問的な役割をしてもらっていた面がある。
大のオーディオマニアであり、私の歌や音楽好きの面と合致して、大分彼の意見で高いオーディオの設備を買わされ(?)た。
20代の独身の頃、私が作った曲の録音を担当してもらったり、映画作りの時の音響担当をしてもらったりと、長い長い歴史がある。オーディオに懲りすぎたのか、仲間と立ち上げた会社の運営に没頭しその機会を失ったのか、彼は未だに独身である。
10年程前に、彼が一人の大学時代の友人を私に紹介した。宗本さんである。

宗本貞之さん
この宗本さんがまた非常にユニークで面白い人である。
私の健康の源、EMを最初に伝えてくれたのは実は彼である。その当時、不健康を絵に描いたような人生を送っていた私は、それこそ金も時間も使い、「健康になれるのであれば死んでもいい・・!?」というような気持ちで、何万ボルトの電気治療や、骨を折られそうな整体や強力な指圧、針、えらく高い朝鮮人参とか、ゲルマ二ウムとか様々な健康食品、マイナスイオンの出る毛布、朝一の自分の尿を飲む尿療法(少ししょっぱいが結構飲めた)迄、人が少しでも良いといえば、飛びついて妻に大分小言を言われながらも続けていた。
そんなある日、平塚氏が紹介してくれた宗本さんが「小林さんいいものがあるよ!」と私に微生物の土壌改良剤=EMを飲むことを勧めた。 これがきっかけで、私の体はみるみる健康になり、先般の定期健診の結果で58歳の私は、ついに全項目数値の範囲クリアーという快挙を成し遂げた。

宗本さんの履歴を聞くと誰もがびっくりする。
大学時代は、途中で親の仕送りが突然途絶え、ほとんど授業に出ずにアルバイトをしながら卒業したとのこと(ただサボっていただけの私とは大分違う)。そして理工系のその大学を卒業後、友人と二人でブラジルに渡り、農業で一旗揚げようとしたが、基での資金もなく、結局は一文無しになり、1週間近くも何も食べずにアマゾンを歩き回ったとか・・・。
その後何とか食いつないだが、ボリビアへ旅していた時に財布をすられて広場のベンチで途方にくれていたら、ボリビア人が隣に来て、「どうした?」と聞くから、「財布をすられて帰れなくなって困っている」と話したら、その男性が自分の財布をポンと出して、置いて行った。そのお金でどうにかブラジルまで戻れたとか・・・。
どこだかの国に入ろうとしたが、ビザがなかなか下りず、結局密入国し、捕まり、何週間か拘束されたとか・・・。
その後、ドイツでドイツ人と商売をやり、かなり順調であったが、宗本さんが結婚式のため日本へ帰り、奥さんとドイツに戻ったら、そのパートナーが奥さんとの離婚問題がこじれで裁判沙汰になり、結局製品も押さえられ、せっかくうまく行きかけた仕事がパーとなったとか・・・。
ちなみに、奥さんは元CAであり、持ち前の誰にでも直ぐ話しかけ、友達になってしまう例の性格で、機内で射止めたと聞いている。
その後、イタリアへ渡り、イタリアで訪問販売(最初は言葉が分からないため看板を首にぶら下げて訪問したという)でテレビのアンテナ修理をして生活をしていて、そのうちにまともな電気関係の職業に就き、生活も安定した。
6年程生活した後、ある程度お金も貯まり、奥さんと共に日本へ帰るため、銀行から全財産を下ろし、空港へ向かったのだが、空港でひったくりに合い、必死で追いかけたら、犯人が途中でポンと新聞紙に包んだものを投げたため、てっきり盗まれたお金かと思い、中を見てみたら、ただの新聞紙で、その間に見事に犯人に逃げられ、結局、日本大使館でお金を借り、日本へ帰国したという。
この人、聞けば聞くほど様々なエピソードがあり、その詳しい内容、前後関係は良く分からない。

コペンハーゲンでトランジット
私の会社が、傾きかけどうにもならなくなった時、この宗本さんから・・・「小林さん大丈夫よ どうにかなるから・・・・」と云われた一言は、どんな励ましの言葉より力強く、心強いものであった。 このような百戦錬磨の達人と一緒の旅行である。ただでさえちょっと自分より秀出ていると思えば、ノリタマを決め込む(まるっきりお任せするの意)私である。それこそ大船に乗った気持ちで全てお任せで飛行機に乗り込んだ。
長い長いフライトであったが、ようやくトランジット(乗り継ぎ)先のデンマークのコペンハーゲンに着いた。
2時間程待ち時間があるという。もちろん黙ってぶらぶらしている法は無い。タクシーに乗り込んでコペンハーゲンの市内観光である。英語、イタリア語、ポルトガル語、中国語、ドイツ語・・・いろんな国の言葉を話す宗本さんである、怖いものは何も無い。
コペンハーゲンの街並みは、レンガ造りの家々、建物、道路でやはりこの国特有の雰囲気が漂っている。
オーディオも凄いがカメラもプロ級(の装備?)の平塚氏がカメラを3台(それも一眼レフのとても大きいもの)と立派で重い三脚を持ち歩き、一枚の写真を撮るのにも、かなりの時間を要している。
ここはあまり時間もないので、街のカフェでコーヒーを飲み、タクシーに乗り込み、空港へと向かった。
宗本さんが財布を出してタクシーの料金を払おうとしたら、この国は未だユーロの加盟前とかで、ユーロが使えないし、ドルも勘弁してくれと言われた。クレジットカードが使えるというので、私のカードで支払った。
車から降りて、さあこれからいよいよ本番のイタリアへ向かうぞ・・・と空港のドアに入った途端、宗本さんが血相を変えて「財布がない!今のタクシーに置き忘れた!!」といい始めた。聞けば何十万というユーロ紙幣、ドル紙幣、日本円、そしてパスポート、エアーチケットの全てが、その失くした大きな財布に入っているという。
私は最初冗談かと思ったが、あまりの宗本さんの狼狽振りに、その深刻さを知った。普通それだけの大金が入った財布であれば、100%中、98%位はまず出てこないと思った方がいいだろう。それも全く様子の分からない国で、飛行機の搭乗時間も迫って来ている。
最悪は我々だけでイタリアへ向かうしかない・・・と私も妻も平塚氏も、それぞれに思いを巡らせた。しかし、この旅行は最初から全て宗本さんに「おんぶに抱っこ」の旅行である。それこそ、ここで投げ出されたら、どこでどうしてどうなるやら、いきなり田舎から都会につれて行かれた子犬みたいな状態になりそうである。
そんなことを考えている場合ではない、どうにかその財布が戻るべく努力しなければ・・・・。
その時私の頭は一瞬冴え渡った。「あっそうだ!クレジットカードの領収書だ!!」
クレジットカードの領収書を即、空港のサービスカウンターに持ち込み、タクシー会社を通じて、さっき乗ったタクシーを呼び出してもらうことにした。
バッチリであった。タクシーに財布があったとのことである。数分の後、先ほどのタクシーの運転手がニコニコしながら戻ってきて、その全てが入った財布を手渡した。一件落着! どうにか多めにチップを弾み、この旅行の最初に訪れた最大の危機を乗り切ったのである。

いよいよイタリア
実を言うと私にとってイタリアは二度目の訪問となる。・・・っと云っても36年前の神田通信に入社する前、すなわち学生時代最後の大旅行・・・その頃は「洋行」といって海外旅行はとても希少価値であったが、親のすねをかじって9ヶ国の約30日間、今思えば、夢のような旅行をしたことがあった。
イタリアもスイスのジュネーブからミラノ、ベニス、フィレンツェ、ローマ、ソレント、ポンペイ、ピサ-ジェノバ、マルセイユ、ニースからジュネーブ戻りという、お金が無かったわりに列車で満遍なく見て歩く豪華旅行をしている。
イタリアはミラノの空港に降り立った。
宗本さんの話によると、ホテルは行き当たりばったりで決めるため、殆ど予約はしてないとのこと、しかし、この日だけは到着も遅いし、ホテルを探すのが大変だからホテルの予約をしてあるとのこと。我々は颯爽と、タクシーに乗り込み、早速その予約してあるホテルに向かい、結構立派そうなホテルに到着した。
チェックインを早く済ませて、長旅の疲れをお湯でも浴びて取りたかった。が・・・・
宗本さんがホテルのフロント係りの人と何かもめている様子。
結局、そのホテルは似たような名前のホテルであり、宗本さんが予約したホテルではなく、そこから例の車つきの旅行カバンをゴロゴロと引っ張って10分程歩かなければならなかった。
しかも、そのホテルは先ほどの間違えたホテルよりかなり劣っているように思えて、何か損をしたような思いを抱いた。

ミラノ市内観光
翌日、ホテルをチェックアウトし、荷物を預け、地下鉄に乗って市内見物に出かけた。
最初はゴシック建築の最高傑作と云われるドゥオーモという聖堂である。改装中であったが、とにかく凄い建物で、壁や柱が全て大理石の彫刻で、一つ一つが全て芸術である。
中に入るとさらに凄い。
内部は非常に広く、ひんやりとしており、天井高く仰ぎ見る美しいステンドグラスは見る者の溜息を誘う。
エレベーターで屋上へ昇った。幾百もの尖塔が天を突き刺すように延びており、ここからのミラノの街の眺めもまた格別である。
改装中のオペラ座の大きな上演予告の看板の前を通り、ミケランジェロの最後の晩餐があるという教会風の美術館に行ったが、旅行本にも書かれている通り、1週間前から予約しないと入れない。
みんなでせっかく来たのに・・・とがっかりしていると、ここで宗本さんから一言「小林さん!僕は以前見る機会があったけど、写真と全く同じだったよ!」・・・・その時はなんとなく納得してその場を離れたが、帰ってからよーく考えると、そうゆうことではないんじゃーないかと思ったが、後の祭り!ミラノの駅もかなりの芸術品だ。写真やビデオを撮り、この駅から次の目的地ベニスへと向かった。
宗本さんはどこへ行っても直ぐに他人と話し始める。以前、東京の山手線の車内で若い女性にいつものように話しかけたら、変態男と間違われた・・・とか云うこと。
あちらの鉄道客車はコンパートメントという個室スタイルであり、われわれ4人の他に2名の外国人男性が居た。即、会話が始まった。
そのうちの一人はシンガポールのセールスマンとかで、良くしゃべる。
窓の景色は、時々の駅の近くを除けば、殆どが畑や田んぼである。ちょうど北海道のようだと、北海道出身の平塚氏が云う。ブドウ畑も多い。イタリアは観光の国であるが、どうみても農業国である。
とりとめもないシンガポール人との話や、窓のブドウ畑を見ているうちに、36年前のあの懐かしい景色・・・そうあの水の都ベニスの街並が見えてきた。

ベニスにて
36年前にも思ったが、この街はよく水没しないなぁと思う。
とにかく、水が至る所まで入り込んでいて、どこもかしこもピチャピチャピチャピチャである。
駅からすると川向こうの小ざっぱりとしたホテルに落ち着いた。
さあ、いよいよベニスの街の散策である。
とてもロマンチックな街だ。橋の袂で若い恋人達が人目も憚らず、愛を囁いている。やはりこういうところは新婚旅行とか若いうちにくるべきだと、何となくわが最愛の妻と顔を見合わせた。
ベニスと云えば、やはりサンマルコ広場である。
今や数々の宝石店やカフェ、みやげ物店が立ち並ぶ、サンマルコ寺院を凹型に取り囲む建物が、かつての政庁であったとのこと。
映画「旅情」にも出てきたこの広場のカフェでコーヒーを注文すると、黒のパンツに白い背広、蝶ネクタイのスマートなお兄さんが、流暢なイタリア語で話しかけてくる。
勿論、宗本さんが受け答えをし、飛ばすジュークも様になっている。
コーヒーとか紅茶を注文し、私はこの広場の散策・・・というよりも平塚氏の超望遠レンズのついたカメラを持ってイタリア美人の隠し撮りに出かけたが、残念ながら殆どその手の美人はいなかった。
旅行全体を通じ、本当に残念ながら、胸をときめかすような美人にはお目にかかれなかった。

夜のコンサートと食事
サンマルコ寺院の直ぐ脇に教会風の建物があり、夜、そこでビバルディーの四季の生演奏があると書かれた張り紙を見つけておいて、そこから、港の方へ歩いてゆくと、只でガラス細工をやっている有名なムラーノ島へきれいな木張りのボートに乗せて行ってくれるという。
「ベニスでロマンチックにゴンドラでカンツォーネを・・・」と夢見ていた私達であったが、大体ゴンドラは異常に料金が高く、殆ど相乗りで6~7人が乗っており、そのゴンドラをやはり6~7艘集めて、カンツォーネを歌っている光景を見て、そのゴンドラの夢は淡くも消えうせており、せめてあの木張りの高級そうなボートに乗ってみたいと思っていた矢先であったため、即みんなの意見は纏まった。
約20分程のクルーズでムラ―ノ島に着いた。
紳士風の人が我々を出迎えてくれた。
36年前にも確かに来て見た記憶があるが、36年たってもここのすばらしいベネチアングラスには手が出なかった。
何も買わないお客は最早お客ではない、♪♪行きはよいよい帰りは・・・・♪♪。
はっきり言ってその島におっぽり出されて、結構暑い日差しの中をさまよって、ようやくバス停ならぬ船の停留場についた。
「タダほどヤバイものはない」
その夜は、イタリアはベニスのしかもサンマルコ寺院の脇の古い由緒ありそうな寺院内での演奏会・・それもビバルディーの四季としゃれ込んだ。
演奏は素晴らしかった。祭壇の跡を舞台にしたような 、こじんまりとしたこの会場がまたなんとも云えない独特の雰囲気を漂わせている。
我々のほかにも若い日本人のカップルが居た。どう見ても女性が男性を無理やり連れてきたという感じ・・だ。
演奏は春-夏-秋-冬と進んでゆく、旅の疲れとこの演奏の和やかさが心地よい眠りをさそう。
熟睡した。
「これはまずい!」・・と目を覚まし、周りを見渡せば、我々の仲間全員が夢の中、言いだしっぺの平塚氏も気持ちよさそうに寝ている。
先ほどのカップルの男性も寝ている。さすがに女性は起きて一生懸命聴いている。
実に居眠りをしているのは我々日本人だけであった。
みっともない!
「演奏会」というよりも「居眠り会」といった方がよさそうな演奏会が終わり、いよいよ待望のディナーである。
その辺の路地を奥へ入ったところにレストランがあり、ゆっくりと旅の疲れもとれた後のおいしいグルメを期待した。
ここでも宗本さんの独壇場である。
若いボーイとなにやら色んな話が進んでいるようだ。
なんだか2~3ヶ月前に日本の若い女性とねんごろになり、日本へ行って会いたいとか云っているようだ。名前が○○チャンとか云っていた。
最近の日本の若い女性も海外でいろいろとエンジョイしているようで、若い娘をもつ親にしてはあまり気分の良い話ではない。
その後は、何やらスケベ話で盛り上がっているらしい。
十分コミュニケーションが取れた後で、メニュー選びである。
これと・・これと・・と次々に選んで行ったら、そのボーイさんのお勧めの魚料理「スズキ」・・・ということで、それも選んだ。
食べている間も、そのボーイさん、ひっきりなしに来てはスケベ話しに花をさかせて、楽しい(?)食事が済んだ。
さて、お勘定の段になったら、宗本さんの顔色が変わった。
先ほどの魚料理が1匹約1万円近くして、4皿であるから、合計するとかなりの額である。
そう云えば、一人一皿かなり大きなスズキがどーんと出て、とても食切れるような量ではなかったが、これも後の祭である。
よくよくメニューを見ると、一皿いくらではなく100gいくらという表示で他はみな一皿単位であるから、はっきり言って「ひっかけ」である。
結局はまたしても私のゴールドカードのお呼びとなり、支払っていると、その調子のいいボーイが私に向かって何か盛んにスケベ話をしている様子。苦笑いをしながら、結局、その5星でも1つ星でもなんでもないレストランを後にした。

ドロミテへ
今回の最大の目的はイタリアの北側山岳地帯の散策にあった。
天気がよければスイスのマッターホルンの方まで足を伸ばそうという計画であった。宗本さんはとにかく山好きであり、週末になると殆ど奥さんと一緒にどこかの山に登っている。
最近噴火した我が故郷の浅間山に勿論噴火前であるが、「登山禁止」を無視して登っている。また平塚氏は無類の写真好きであるから、当然イタリア、スイスの壮大な山の景色を写したい。
我々夫婦は・・というとどちらかといえば、普通の観光旅行をしたい。
最初はやはりローマとかソレント、ポンペイの方まで行きたいと、この二人と別行動をとろうと色々と検討をしていたが、「南の方はスリ、引ったくりが非常に多い」という宗本さんの言葉と、色々とイタリアに行ったことのある人の話を聞いて断念し、ドロミテという山岳コースのドライブということに相成った。
べローナというところまで例のコンパートメントの列車に乗って行った。えらく電車が混んでおり、立ち席であった。
途中、コンパートメントに座っていた男の人がタバコを吸おうとタバコを出した時、隣のおばあさんがその人に向かってなにやらまくし立てている。
結局はその男性、その通路もいっぱいの人達を掻き分けてデッキの方へ出て行った。
宗本さんから事の次第を聞いたら、そのコンパートメントは喫煙席であったので、当然その男性は権利としてタバコを吸おうとしたのだが、そのおばあさんが、「貴方はこんな混んでいるところで、しかもこんな綺麗な車両で何故タバコをすうのか?」と大分責められて、仕方なしにデッキの方へ吸いに行ったらしい。
今、日本では電車や公共の場所で、全く知らない人に意見や注意をするというようなことが殆どなくなってしまっている。下手をすれば、殴られたり、刺されたりの危険もあり得ると考えるからである。
そういうことからすれば、イタリアの方が様々な国の人が入り込んでおり、スリや引ったくりが日常茶飯事の国であるから、日本よりはるかに危険な国だと思われるが、このおばあさんは臆せず堂々とその男性を説き伏せたのであった・・・・。
ベローナの駅のレンタカー屋さんでレンタカーを借りた。
ベンツの中型車である。
どんな高級車かと思っていたが、乗ってみると大したことは無い。
私は、車は日本車が一番だと思っている。日本のモノ造りの技術は、まず絶対に他の国には真似ができない。最近色々と思うことがあって勉強したが、日本という国は非常に世界の中にあって特殊な国である。
これだけ単一民族であり、長い歴史を持っている国は他に例をみない。「以心伝心」「あ・う・ん・の呼吸」云わなくても分る国民は日本だけである。
高精度の寸法が入っている図面に対し、それをクリアーすれば良いのではなく、さらにその中心まで持って行こうとするのが職人の国=日本人、中国系の人達は、寸法が入らなくても、あの手この手で買わせてしまうという商人の国である。
モノ造りに言い訳は不要だ。「いいか悪いか」だけだ。
長くなるので、「モノ造り日本は永遠であり、これから益々世界をリードして行くであろう」・・とだけ云っておこう。
そのたいしたことがないベンツに乗って、ベローナの街をドライブしようとしたが、何せ逆ハンドル、通行は右通行、百戦錬磨の宗本さんも、かなり苦戦をしながら運転している。
ロミオとジュリエットの舞台となったジュリエッタの家という家があるということで、ぐるぐる回ってみたが、結局は見つからずに戻ってきたが、途中やたらと狭い道路があり、ベンツのミラーを何かに当ててしまい、鏡が外れてしまったが、応急処置をしてどうにか収めて走った。
ベローナから一路山岳地帯の麓の都市、トレントへ向かう。
途中大きくて綺麗な湖があり、普通であれば大いにその景色を満喫できたであろうが、我々は残念ながら、その益には浴せなかった。
何せ、一車線の曲がりくねった道を、全ての車が時速70~80km/hで突っ走る。おまけに宗本さんの運転は左ハンドルで右通行でおぼつかない。
はっきり云って、生きた心地がしない。
それでも中には凄い人がいるものだ。助手席で最もその被害甚大のはずの平塚氏は、そのような過酷な状況の中でもこっくりこっくり居眠りをしている。
そして時々目を覚ましては、「おーい宗本!もっとゆっくり走れないかい?」「おちおち寝てられないヨ」と云う。
こちらは女房と二人でハラハラしどうしで、とても居眠りなど出来る状態ではなかった。
それが当の宗本さんはサービス精神が旺盛な人で、次々に移り変わる風景を、独特の身振り手振りで説明してくれるのだが、その身振り手振り時がまた怖い。それがご丁寧に横を向いたり後ろを向いたりしながらの説明である。
その度に車がぶれる。細い道のスピード感は大変なものである。何度も何度も対向車と接触あるいは衝突しそうになるから、説明を受けて宗本さんがこちらを向けば向くほど、こちらは前の車を見ながら「あっ!危ない!!」とか「宗本さん!前!前!」とか云って、とても景色を見ている余裕は無い。

トロントからドロミテへ
この旅行を通じて、このトロントのホテルが最も安くて、最も立派なホテルであった。調度品や絵画もりっぱであった。結局、都合2日間このホテルに泊まることになったが、街としてもこじんまりとして落ち着きがあり、とても良い街であった。
次の日はいよいよ今回の最大のポイントであるドロミテという山岳地帯のドライブである。
天候は曇りでどんよりとはしていたが、雨ではないので、まあ良しとしよう。
ドロミテの村々はよくヨーロッパの山岳地帯の村々のような小さな教会があり、赤や青の屋根に白い壁の小さな家々が点々としている、フランダースの犬の村のような風景が山を越える毎に出現する。
微妙にそれぞれ違うため、平塚カメラマンはしきりにカメラをセッティンングし、我々は画素数のあまり多くないデジタルカメラでバチバチとその内容はともかく枚数だけは多く撮った。
午後二時頃、トンネルをくぐった。目の前に氷が張った湖が出現した。ロッジ風の建物と大きな案内の盾看板。
宗本さんの話によれば、ここから後2~3時間で目的の街だか村だかに着くのだという。
宗本さんの大分板についてきた運転でその湖を離れ、そこから山越え野を越え、村を越え、何度かのシャッタータイムを含め、約3時間位の快適なドライブをして、そろそろ目的地かと、皆が思い始めた矢先にトンネルをくぐった。
凍りついた湖があり、ロッジ風の大きな建物、看板・・・いくら私が方向音痴で、いい加減な人間でも、これははっきりと分かった。
我々は実に、3時間かけてぐるりとこのあたり一帯を一周して戻ってきてしまったのだ。
コペンハーゲンの空港での出来事に次ぐショックであった。
「また、今来た道を戻るわけ?」
いくらおいしいお料理も腹が満腹であれば、あまり有難くない。いくらいい景色でも、もう一度同じ道を通って行くのは、大分抵抗がある。
しかも、そろそろ日が暮れてきそうな時刻。
結局は地図を見て、かなり直線で一気に下り、朝来たトレント方面へ向かう道路があり、この道を下ることになった。
・・・と言う訳で、再びトロントの大変気に入ったホテルに泊まることと相成った訳である。

フィレンツェへ
行きと違い、帰りは広い高速道路で帰ったため、あのカーレースのような危ないドライブではなかった。
レンタカーをベローナの街で返さなければならない。
ようやくベローナの駅を探し当て、レンタカー屋に行ったが戸が閉まっており、誰もいない。土曜日で休みというのは理解できるが、借りる時の契約でこの日に返すことになっているから、律儀な日本人観光客の我々としては、違約金だ、持ち逃げだと騒がれても困るため、どうにか連絡を取ろうとしたが無理だった。
仕方が無いため、そのままレンタカーの旅を続けることとなった。
天候の状態があまり良くないため、スイス方面の山岳地帯は諦めて、再びイタリアの街方面を目指そうと云うことになった。
私は36年前の印象が深かったフランスのマルセイユからニース、モンテカルロの辺が良いと思ったが、以前に宗本さんがニースでひどい人種差別にあったとかで、結局、宗本さんの娘さんが留学中のフィレンツェへ行くこととなった。
高速道路で約200km位の距離を猛スピードで走りぬけたが、やはり途中途中の宗本さんの運転中の身振り手振りの説明ははっきり云って怖い。
それでも助手席の平塚氏のみならず我々も、この「運転の恐怖」も旅の疲れと睡魔には勝てず、コックリコックリを繰り返しながら、芸術の街フィレンツェに着いた。
時は春、日本は正に5月の連休の真っ只中、ここフィレンツェは白い綿のような花が当たり一面に飛び交い、はるばる遠い日本から来た我々を歓迎していた。(・・と勝手に自分で思った・・・?)
宗本さんの絶妙な感(?)で娘さん(マミさん)のアパートの直ぐ近くまで行ったわりには結構時間がかかって、ようやくアパートまで辿り着いた。
この娘さんマミさんもやはり宗本さんの血を引いている。
高校はニュージーランドの学校を出ている。私の息子もニュージーランドの大学を出ているが、彼女は本当のローカルの学校で普通の家庭に下宿しての3年間、私の息子は日本人留学生のための大学で、場所がニュージーランドで英語で授業をするというだけで、友達も日本人で日本語が通じる世界であり、同じニュージーランド留学といっても、その内容ははるかに違っている。
ニュージーランドの高校を卒業後、イギリスの大学へ行ったが、イタリアに旅行に来て、気に入り、その後2年程イタリアの大学で勉強しているのだという。
話を聞いても、考え方も言い方もきちっとしっかりしており、わが息子、我が娘と自然に比較してしまうが、後悔先に立たず・・である。
それでも私は別にそれぞれの人間の人生を否定はしない。
私の息子にしても、確かに二ュ―ジーランドの中途半端な大学生活を送らせてはしまったが、現在、中国大連で若干24歳であるが、私の会社のかなり難しい機械を6台、12名の作業者1名の管理者を従え、悪戦苦闘しながらもその任務を果たそうとしている。
このわが息子を見るにつけ、まず、海外というアレルギーがないこと、どこでも生活できるという体験からきた自信が、今回、「大連へ行って新機種を立ち上げるか?」との問いに「ハイ!」と答えられた要因となり、また、この立ち上げを経験し、成功させることで、どの位彼が成長するか計り知れないものがある。人生トータルどこでどう学ぶのか、早いか遅いかは人それぞれである。

ストップ!
今回、原稿締め切りもかなりすぎてしまっているし、短く軽く切り上げようと思ったこの旅行記は、どうまとめてみてもこれまでで最大の長さになってしまいそうである。
・・・と云う訳で、その宗本さんの娘さんマミさんのたくましさと、それでいて日本的な感情細やかな在りようを見て、自分の子供にはどうしても甘くなってしまう自分の子供の育て方を考えさせられた。

街そのものが芸術・・・フィレンツェ
フィレンツェの街はイタリアの他の街と同様・・それ以上に芸術そのものの街である。
宗本さんの案内で、まずは小高い丘にあるサン・ミニアート・アル・モンテ教会の色大理石の建物、ミケランジェロ広場から見下ろすフィレンツェの街並み、大きなダビデ像のコピーの大きなイチモツに圧倒されながら、彫刻細工店や宝石店が立ち並ぶ有名なベッキオ橋を渡り、これまたこの街でもひと際大きく立派な寺院サン・ロレンツォ教会のメディチ家礼拝堂へ向った。
このドームの豪華さは見るものを圧倒する。
この礼拝堂の上に昇りたかったが、凄い行列ができており、いつもの通りあっさり断念、隣の塔は行列がないため、ここへ昇ろうということになった。
行列がないはずである。500数十段の階段の歩きである。
しかも非常に狭い、人一人がようやく通れる広さしかない。
従って、上る人と、下る人は上下いずれかの踊り場でお互い、どちらかを待たなければならない。
結局、煽られるような状態となり、あまりマイペースで休み休みゆっくり上ることはできない。
普段、会社と家の往復は車、会社の中でも殆ど座りきりの私には、これはかなり堪える。
そこへ行くと、宗本さんなんかは登山で鍛えており、ひょいひょいと苦もなく登っていってしまった。
意外だったのは平塚氏、相変わらず、思いカメラを何台も持ちながらも宗本さんと共に登って行ってしまった。
私は女房とマミさんの後からノコノコと着いて行ったが、途中で買ったイタリア本場の革カバンも非常に重く感じ、ようやく上に登り切った時には、息も絶え絶え、脂汗がでて、そのまま倒れるかと思ったが、しばらく腰掛けていたら、どうにか回復した。
ここからの景色は、苦労して登っただけあり、また格別であった。
芸術の街・・フィレンツェが一望にして見渡せた。
せっかく苦労して登っても、降りるのは一時、あっという間であった。
以前、皇室の紀宮様がフィレンツェに訪れた時、マミさんは、通訳をすることになったそうだ。
「本当は通訳の人は質問してはいけなかったのですが、私知らなくて質問しちゃったんです。」とお母さんもお父さんにも似ている、そのかわいらしい中にも芯の強そうな瞳が恥ずかしそうに笑った。
マミさんは学校へ行くというので、一旦別れ、我々は一休みということでフィレンツェの駅の近くのカフェテラスで小休止のビールを一杯飲み、リラックスして塔の登りの疲れをとることにした。
ウトウトしていると、またしても宗本さん、傍に座っていたイタリア人と何やら激論を飛ばしている。時々、店の店主らしい人も加わったり、どこかのおばさんが加わったり、大声で何か全く分らないがイタリア語の会話が弾んでいる。
後から聞いたら、色んな話をしたが、特に政治の話で盛り上がっていたようだ。
我々一般的日本人は非常に政治には無関心で、別世界のことのように思っているが、イタリアとか他の先進国と呼ばれる国の多くの人達は、政治に対し非常に厳しい目と、自分の意見を持っている。
「日本の経済は一流、政治は三流」と云われる由縁は、いつまで経っても、国民の利益は後回し、自分たちの利権の確保に奔走する政治家をのさばらせて置く我々国民の政治に関する意識の希薄から来ているということが、このような海外でのちょっとしたハプニングからも容易に察することができる。

ピザの国イタリア
夜は再びマミさんも加わって、ホテルで聞いた美味しいピザの店でのディナーとなった。
実を言うと、この旅行中の朝のホテルのバイキングを除くと、昼、夜・・殆どがピザかハム入りのフランスパンのどちらかであった。
日本で云えば、ラーメン屋とファミレスを合わせてちょっと高級レストラン風にしたようなイメージと考えたら良い。
すなわち、比較的安い食事ということである。
イタリアの物価は非常に高い。宗本さんの話によると、10年前の倍近く物価が上がっているとの事。これはイタリアがユーロに加入したことによる影響のようだ。
私も36年前の日本円が未だ360円時代のイタリアの印象では、その当時のリラは非常に割安であったことを記憶しているため、この物価の高さは異常に思えた。
殆どのものが日本と同じ位かあるいは多少高め、と云った感じか・・・・?
100円ショップとか安売りがある日本の方が、はるかに安いといった印象が残る。
日本の2/3位という所得からすると、物価は、やはり非常に高い。逆に云うと、我々日本人は結構普通のサラリーさえきちっと貰っていれば、非常に生活がし易い状況にあると云える。
そんな訳でピザの食べ歩き旅行のようなイメージとなったが、その夜も大分馴染んできたピザを中心としたディナーを食べた。
宗本さんと平塚氏は毎晩、欠かせないのがワインである。
私は・・・というと、この旅行の前に軽井沢プリンスで「テーブルマナー」の講習会というのがあって、会社の女性事務員(我が女房も含む)3人を従え(本当はノコノコついて行っただけ・・)、颯爽とフルコースに臨んだが、普段の仕事の疲れもあったが、「食前にはあまりガバガバ飲まないこと」というマナーを無視し、おいしいワインを手持ち無沙汰も手伝い、大き目のワイングラス3杯も飲んでしまった。
すきっ腹で、もともと胃が弱く酒には弱い質である。
目が回りだし、そのままダウンしてしまい、殆ど食べることなしに終わったという苦い経験をしたばかりであったため、ワインは飲まないことにしていたが、このお二人はめっぽう強い。
レストランで毎日少なくとも二人で1本、通常は2本空ける。
この日も2本空け、後で聞いた話だと、ホテルに帰ってからも部屋で二人で飲み続け、さすがに平塚氏は眠くなってウトウトしていたが、宗本さんは飲めば飲むほど饒舌になり、一人で喋りまくるのだとか・・。
この日は、特に長い高速道路を居眠りをしている我々をよそに、一人で猛スピードで運転して来た訳だから、相当疲れているのにも拘わらず、この勢いで、平塚氏がトイレに入っているのにも拘わらず、大声で喋りまくっていたとのこと。
凄いパワーである。
結局、二日間フレンツェに滞在し、マミさんともお別れし、レンタカーを返しに同じ高速道路を通り、一旦、ベローナに戻った。
レンタカーの延長も、ミラーの損傷も何もお咎め無く(もっとも取り立て云わなかったからあちらが気がつかなかっただけではあるが・・・)、我々は一路、最後の宿泊地、ミラノの傍のノバラという小さな街へ向かった。
地名がノバラで「野薔薇」を思わせるが関係はない。
ここは宗本さんが、6年間イタリアに滞在した際の下宿先で、そこの老夫婦に大変お世話になっているための訪問である。
ご主人は既に亡くなってしまっており、老婦人=ドロレスおばさんが一人で大変綺麗な家に住んでおり、自分の子供が居ないため、宗本さんをわが子のように思っている。
であるから、我々がその家に着いた途端、大変な歓迎振りである。
私の女房の手を取って、まずはハウスツアーである。家の中の調度品は殆ど古い由緒のありそうなものばかり、家のいたるところに無くなったご主人の写真が貼られており、そのひとつひとつを丁寧に説明して回る。
すばらしい香りの紅茶を戴き、その日は無事(?)帰った。
宗本さんはドロレスおばさんの家に泊まるのだが、一旦は我々をホテルに送り届けなくてはならない。
ドロレスおばさんのタクシーなど高いものは乗ってはいけないとの指示に従い、帰りは路線バスで帰ることとなった。
4人もいれば、料金はそうは変わらないような気もするが、このドロレスおばさんは一旦言い出したら、なかなか治まらない。綺麗好きというより、潔癖症、完全主義のようなところがあり、宗本さんのタバコに関しても。もちろん外に出て吸うのだが、さっきは何本吸ったとか、体に良くないと我々の居た1時間くらいの間に数回、同じ事を言っていた。
次の日は、ドロレスおばさんのところでランチに招待されていたが、朝のうちに、我々だけで近くの通りへ朝の散歩に出かけた。
イタリアに来て初めて「宗本バリア」から離れ、イタリア語など全く分らない我々だけで町を歩くことになった。
小さい町ではあったが、なかなか店にはセンスの良いものがたくさん並んでいる。
わが女房殿も、フレンツェでは私のビジネスバッグを買っただけで何も買ってない。
バッグ屋さんに入った。
色とりどりでステキなバックがたくさん並んでいる。
わが妻は、なんといっても買い物には時間がかかる人である。
あれだこれだ、これは娘に・・・とか大分長い時間をかけて選んでいる。
どうにか決まったようで、これからが私の出番である。
価格交渉に入る。
海外の場合、粘ってまけさせる快感というのがある。
もっともタイとか中国では、日本人価格があり、初めから普段の3~4倍、10倍の価格は普通に云うから、粘ればいくらでも値引きが効くように思えるのだ。
ここはイタリア・・・果たして・・・。
やおら私は新兵器「電子辞書」を取り出した。
この電子辞書、非常に優れもので6ヶ国語を発音入りで会話ができる。
私は早速イタリア語の部分を出し、
「この品物は気に入ったんだけど、ちょっと値段が高い・・・」という意味のところのボタンを店主と思われる婦人に向かって押した。
答えは「ノー」・・・ただそれだけ。
すごすごと、魔法(?)のゴールドカードを取り出し、支払った。
古いお城の跡や、殆ど人の居ない聖堂があり、それこそゆったりゆっくり見学した。
平塚氏はこの聖堂でこの旅一番の傑作写真を撮ることになる。
じっくり時間をかけて写せたためだ。

ドロレスおばさん
タクシーに乗り、我々三人だけで宗本さんの居るドロレスおばさんの家へ行った。赤や白の様々なバラが綺麗に咲き誇るその家は、通りが見つかると直ぐに分った。
ベルを押すと、知らないおじさんが突然現れた。
ボランテイアの人だ。
銀行のえらい上の人らしい。
イタリアでは、ある程度裕福になると、ボランテイアをやるのだという。この男性は年をとり一人暮らしのこのドロレスおばさんの食事や力仕事や話し相手をボランテイアとして毎日やっているのだという。
それも長い昼休みを使って・・・・。
若禿で髭面のその人のよさそうなボランテイアの人とドロレスおばさんの大歓待が始まった。
次から次へと料理が運ばれてくる。
私はもともと少食で昼は普段ほんの気持ち程度しか食べていないため、直ぐに満腹になる。
ところが、このドロレスおばさんは厳格で非常に厳しく、盛られたお皿に少しでも食べ残しがあると、厳しく追求される。
それもご丁寧に山盛りに盛ってくれる。
私は最初はしょうがなしに全部食べたが、次から次へと様々な料理が出てきて、私は最初の料理で既に満腹となり、後はいらないというと、「私の歓待を受けられないのか?!」と責められる。
しょうがなしにフォークで料理を突っついていたら、今度は食べ方の基本がなってないと私の背後に来て食事作法の指導が始まる。
この食事・・・実に私にとっては“拷問”であった。
つらく長い拷問から開放され、ようやくドロレスおばさんの家とお別れすることになった。
とにかくこのおばさんは宗本さんのことを本当にわが子のようにかわいいらしい。
ボランティアの人にも相談して、その日イタリア最後の夜のレストランを予約してもらって、帰途についた。
その予約したレストランというのが、近くまで行ったがさっぱりわからない。入り口が非常に狭く、派手派手しいネオンや看板が一切ない。
予約の7時ちょっと前にようやくオープンの看板が出て、中に入れたのである。
狭い入り口とは裏腹、中は結構広くて立派なレストランであった。
ドロレスおばさんの配慮でちゃんと禁煙席が予約されていた。
本当に宗本さん思いのおばさんだ・・・!?
最後のこの日の料理は本格的なディナーで結構高かった。
この時初めて、何故毎日毎日ピザとスパゲティなのかが理解できた。
単純にその方が安いのだ。
その夜宗本さんは再びドロレスおばさんのところへ戻り、我々はホテルへ戻った。

帰国
次の日、宗本さんが寝過ごすといけないからおばさんの家に電話してくれというので、フロントの人に電話をかけてもらい、受話器を持った。ドロレスおばさんの元気な声が耳に飛び込んできた。
もちろん言葉は通じないが、どうやら私のことは分ったらしい。宗本さんに伝わったかどうかわからないが、とにかく「グラッツェ!グラッツェ!」(ありがとう)を連発して受話器を置いた。
後で分ったが、これは宗本さんのおばさんへの配慮であった。おばさんは私からお礼の電話が来たと喜んでいたという。
この街からタクシーでミラノへ向かい、思い出のコペンハーゲン経由で合計15~16時間の長い帰途についた。

ユーロ統合
ドロミテを散策中に旧ロシアから独立した国々を中心にユーロへの新しい参加国が加入し、ユーロ25ヶ国となった。
実際に貨幣の統一と共に、お互いの国の出入りが自由になってくると、大資本が地場産業を席巻してしまうというようなことや、外国人による犯罪の増加というような弊害も、もちろんあるが、今回のイタリアを見ても分るように、結果的には経済面では全体の底上げとなり、文化面でも様々な新しい文化圏が築き上げられて行くのではないかと思われる。
アメリカも機軸通過ドルの防衛に躍起となっているのも分るような気がした。

総括
この「ヨーロッパ珍道中」は、結局、宗本さんという類稀なる人物の物語になってしまったようだ。
「あの旅行は、結局、後から反省してみると、殆ど、行き当たりばったりということだったね」・・と宗本さんに云ったら、「ああ、いつもそうだヨ」と軽く云われてしまった。
何が起こるか分からない旅・・・・考えたら我々の人生も「何が起こるか分からない旅」なのかも知れない。
「一寸先は闇」と思っている人がいるかも知れない・・が、私は敢えてここで云いたい。「人生と云う旅は、確かに様々な予知不能な出来事が待ち受けている。決していいことだけではない。しかし、その場面で自分がどう考えて、どう行動するかによって、その困難な場面を切り抜けたり、逆に楽しくしてしまったりも出来る」
「考え方、思い方一つ」・・・・ということではないか?
大金をかけて「ハチャメチャな旅」・・と思われる方もいるかも知れませんが、これが、後からこうして思い起こしてみると、ハチャメチャ面白い旅であった・・と思えるのです。

食事は、いかに楽しい人と食べるかで、その美味しさが決まる。

旅も、いかに楽しい人と旅をするかで、その旅の面白さが決まる。

人生も、いかに楽しい人と過ごせるかによって、その人の人生の面白さが決まる。

願わくば、楽しく、面白く、愉快な人生を送りたいものだ・・・・・。

来年も、再来年も宗本さんとヨーロッパに行くゾー!!

平成16年11月

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北京五輪

コロナ禍、とりわけオミクロン株の猛威が世界を混乱させている中、そして中国の政治問題を引きずりながらも北京五輪が無事に閉幕した。
昨年の東京と今回の北京、結局反対とか、批判があろうが思い切って、やればどうにか恰好が点くということか?
このオリンピック、様々なドラマが生まれたが、女子のパシュートは最後の決勝の一周で高木菜那選手が転倒し2大会連続の金を逃してしまい、残念だった。
高木姉妹、佐藤選手の3名の世界一美しいと言われる隊列は素晴らしい。これはやはり日本人ならではの素晴らしさだ。
菜那選手は、何も言わなかったが、この後の解説で、元スピードスケートゴールドメダリストの清水宏保さんが言っていたが、彼女は氷の割れ目に足を取られ堪えたが堪えきれず、転倒してしまったとのこと。
氷の割れ目と云えば、羽生結弦選手の4回転半ジャンプも氷の割れ目に足を取られて跳べなかったこともあり、今回は競技場のコンデションの問題があちこちで起こり、とても残念だった。
それでも高木美帆選手は、次の日の1000メートルで5種目出場の疲れ切った体で見事オリンピック新記録の金を獲得し、パシュートのリベンジを果たし、素晴らしかった。
問題と云えば、スキー女子ジャンプの高梨沙羅選手をはじめ強豪の5選手がジャンプスーツの規定違反で失格となってしまい、一時騒然となった。
規則と云えば規則だが、せめて協議前にやるべきものではないか?それも各選手は個人戦と同じスーツだったというし、これまでの世界大会でも一度も違反の判定が無かったのが、この一番大事なオリンピックで一気に違反となるということでかなり不可解な出来事だった。
スノーボード男子ハーフパイプ決勝で、冬季五輪2大会連続銀メダルの平野歩夢選手が日本スノーボード史上初の金メダルを獲得したが、五輪を3度制覇した伝説のショーン・ホワイト選手(米国37歳今回で引退)が、新しいヒーローをたたえに来た場面は感動的だった。
またスノーボード女子ビッグエアの女子決勝で日本の岩渕(れい)()選手が3回目に大技のトリプルアンダーフリップにトライし、着地で転倒したものの、高難度の技へ果敢に挑んだ姿勢に他国の選手が彼女への称賛に駆けつけ抱擁した場面も、ショーン・ホワイト選手と同様、国を超え、純粋に同じ競技者として、そのチャレンジ精神に称賛を送る姿は感動的だった。「これがオリンピック」と言いたいような場面だった。

今回のオリンピックで、最も私が関心を持ったのは、女子のカーリング、ロコ・ソラ―レの活躍だった。
日本は、最初にスウェ―デンに負けた後、4連勝した。
私は第2戦のカナダとの対戦から見始めた。
この日のロコ・ソラ―レはかなりいい調子で、特に4人目ラスト2投の藤澤選手がかなり調子が良く前回大会の金メダルのカナダに快勝した。続くデンマーク、ROCロシアも勝つ。
この辺から私も徐々にこのカーリングにのめり込んできた。
更に中国を撃破し、この4連種の勢いで韓国もぶっ飛ばせ!と思ったら、なんと負け、そして続いてイギリスにも負けてがっくり!
解説の人が、氷の状態が良くないと言っていたが、それは相手チームも同じことだから、余り養護にはならない。
そしてアメリカに勝ち、5勝3敗で後は、今回1敗しかしてないトップのスイスとの戦いとなった。そしてこのスイスに勝てば自力で準決勝に進める位置にいるから、どうしてもここは勝ちたいところだ。
しかし、世界ランキング2位、世界大会2連勝中のスイスとの実力差は明らかであり、4-8で負け、メンバーはこれでこの五輪はおしまいだと思ったらしく「ここまでみんな良く頑張って来た」とか言いながら号泣、ところが同じ勝敗で戦っていた韓国がスウェーデンに負けたため、準決勝が転がり込んできた。
その知らせを聞いたメンバーは「ウソ―!」とか言いながら転がり合って大喜び。
翌日の準決勝は、一位のスイスとまた当たる。
私もこれはちょっと大変かな?と思ったが、18日金曜日の夜9時、私がいつも寝る時間からの試合開始、通常は録画しておき、結果を観ずに朝起きてからハラハラしながら観るのだが、この日は眠さも忘れてライブ応援した。
一投一投、いっぱしの解説者気取りで、「これはいい!」とか「あそこはもうちょっと!」とか、ひとりで大騒ぎしながらテレビに向かった。
序盤は一進一退、5エンドで藤澤選手の敵のストーンを2ヶ一緒に得点サークルであるハウスから出すダブルテイクで日本が何と4点のビッグエンドを採り5-2、後半に向かう。
日本のショット成功率は10チーム中最高であり、またストーンの前を掃く、スィーツの上手さもトップとのことで、この数字から行くと、ナンバーワンでもおかしくないが、世界の強豪相手は、試合の駆け引きとか、ここぞという時の正確なショットで、簡単には勝たせてくれない。
6-2で迎えた7エンドで相手に3点採られ、6-5と追い付かれる。
8エンドは1点追加で7-5、9エンドで藤澤選手が難しいショットを決め、スイスがミスショットで2失点が1失点で7-6で最終エンド。
後攻日本は、渋い戦いを続け最後は1点採り8-6で勝利。
あのスイスに勝ってしまった。

そして、オリンピック最終日の20日、決勝はカーリング発祥国イギリスが相手。この日は日曜日の午前10時、手ぐすね引いて待ち、じっくり最初から最後まで見たが、残念ながら余り良い場面も無く破れ、結局、銀メダルに終わった。
このロコ・ソラ―レは、有名な仲の良さ、励まし合い、声かけ、もぐもぐタイムと言われる休憩中の明るい会話等、とにかく前向きで明るいムードは、他のチームを完全に圧倒していた。

このカーリングという競技はちょっと極端に言えば、10エンドの中で、全て最後の1投のための布石をどう作って行くか?の戦いであり、圧倒的に後攻が有利のゲームだ。
ゲームを見始めた最初の頃は、どうして真ん中を狙わずに端の方に置いたりするのか良く分らなかったが、とにかく真ん中でも、端でも自分の投げたストーンのガードを作り、最終的にハウスの中に自分のストーンを相手にはじき出されないように、どうやって残すか?のゲームだ。

会社の経営とよく似ている。
コツコツコツコツ積み上げてきたモノが、一瞬にして崩れ去ることもあり、これを防ぐための様々な布石が必用ということです。
当社は
①ファブレス化 外注化・・タイ、大連、国内協力工場
②基盤となる受注先 有力3社の柱、これを更に数社ずつ増やして行く
③技術力の強化 コイルの加工応用技術の強化。モーター、センサー事業への展開、巻線機製造メーカーへのアプローチ等
③自動化 これからの課題

…これが、時代の波、ライバルの出現、注文の激減等に備える当社の「布石」。
オリンピックを観ながらでも、きちっと経営の事を考える私であった。

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