いよいよ帰国

当初我々夫婦と姉の3人の帰国便は夕方であったが、航空会社の都合で、3時間程早まり、午後3時のフライトとなった。

そのため午後の出発予定が午前8時にはペンションを出発する必要があったため、通常朝食は8時過ぎから(ガツガツしてない)のところを7時半にお願いした。
せめてカナダでの食事の最後は、このペンションの心のこもった美味しいハムエッグで飾りたかった。

 
 さてこの便の早まりは、早く日本に着けるかというのではない。
 来た時と同じように途中シアトルでトランジットとなるのだが、このトランジットでの待ち時間が3時間長くなるだけであり日本に着く時間は同じでいいことは何もない。
 ペンションの支払いはそれなりの豪華な(!?)価格であったが、このような豪華ペンションには今後もなかなか泊まれないだろう。
 オーナーのご夫婦にご挨拶をして去り難い豪華ペンションを後にした。
 来た時と同じフェリーに11時に乗りバンクーバーに向かう。
 フェリーを降りると、エアポートに向かいひた走る。
 兄達はバンクーバーでもう一泊し翌日タイに戻る。
 途中30分位走ったら、飛行場のマークが出てきたため、これは間違いないということで、ドンドン進んで行ったが、兄がこれはちょっとおかしい・・と言いだした。

 
確かにそう云われてみると、時々見える飛行機の降りる方と逆の方に向かっているようだ。
 途中からユーターンして戻って行ったら、先刻の飛行機マークがある場所に戻った。
「この先が問題だ!」という兄の言葉に、目を皿のようにして見ていたら、先刻間違えた道の左側に、小さく飛行機マークの付いた標識が見えた。
 そこを曲がれば問題なかったが、如何せんこの小さな標識では道を知っている人以外、分かるはずはない。
 またしても、日本と比べたくなった。
 日本の標識は、高速や飛行場に行く道となれば、何度でも大きくはっきり表示するはずである。

 
 無事に飛行場に着き兄達とは別れ、3人で早速チェックインしようとしたが、あるはずのeチケットが見つからない。
 以前、中国でeチケットが無いとチェックインできないという経験があるため、先進国だか後進国だか良く分からないカナダも同じようなことがあるかも知れないという不安が頭をよぎった。
 荷物を端から引っ剥がして探すも出て来ない。
 最後にeチケット関連のファイルを出したのはジャスパーのホテルだったが、そこへ置き忘れてきたか?
 ならばコンピュータでeチケットのメールを見つけようとしたが、良くある話で、こういう時に限ってルーターがうまく効かない。
 しょうが無いため、腹をくくってカウンターに向かうと、何と言うことは無い、ここは流石、やはり先進国カナダであった。
日本や先進国と同じように電子登録式のチケット発行機が立ち並び、パスポートをかざすだけで問題なし。
 そばにいた親切な係員が手伝ってくれ、荷物の預け入れまで手伝ってくれた。
 我々夫婦の1ケだけのキャリーバッグはお土産も満帆に入っており、量ったら26kgあり、23kg制限より3kg重い。
 仕方なしに荷物の中身を取り出して姉の方に入れてもらおうと思ってバッグを持ちあげた途端、バッグの握りの部分が壊れてしまった。
 去年北海道へ行った時に、やはりタイヤの部分が壊れてしまった大型バッグを捨て、替え換えたばっかりであったが、またも壊れてしまった。
 
 それから、余ったカナダドルを消化しようと、またしても旨そうなレストランを探すが、なかなか見つからず、結局、その辺の売店でパンを買って食べたが、いつもの通りであった。
 最後の最後まで、食に付いては期待を裏切られ続けた。

 そして、またまた問題のシアトル・・・今度はどんなトラブルが待っているか?
 と思って飛行機を降りる。
 今度は女房は車椅子では無いため、通常の手続きで一旦税関を通り来た時と同じようにバッグを取り再び検査を受け搭乗カウンターに向かおうとした。
 バッグのターンテーブルの前で待ち続けたが、一向に出て来ない。
 飛行機便の便名が出ているターンテーブルで間違いがないが、ホンの数個だけ出てきて、後は待てど暮せど出て来ない。
 結構な時間待っても出て来ないため、意を決してバッケ―ジクレームの事務所に行き、下手な英語でチケットを見せながら、「バッグが出て来ないがどうなっているか?」と聞いたら、これは前のバンクーバーからの便から自動的に次の日本行機の便に積み替えられるのだという。
 一応私も、言い方を変えながら3度ほど確認したが間違いなさそうなため、同じく待っていた2組の日本の人達にも教えてやり、そこから手荷物だけの検査をしてゲートに向かった。
 それでも英語の世界で、聴き間違いがあるか?と心配していたが、教えてやった日本のおばさんが、他の人に確認し、間違いなくバッグは飛行場の方で積み替えるということを聞きホッとした。
 
 飛行機は前の便がキャンセルされる位、かなり空いており、一人で2つあるいは3席ぶっつなげて眠れるほどであったため、ゆったり眠って帰ってきた。
 結局。4日の朝8時にペンションを出て、着いたのは日本の夜の10時前、ビクトリアから実に22時間の長旅をしたことになる。
 
 帰りの電車はもう無いため、中央タクシーという空港送迎タクシーに乗って長野県小諸市に向かった。
 空港で、レンタルで借りたルーターを返しに行ったら、カウンターが偉く混んでいる。
 列の後ろに並んで、やっと番が来たら、借りたルーターは、ただカウンターにあるポストに機器を突っ込むだけでいいという。
 コードや部品が結構な点数は入っており、確認が必要なはずだが、そんなに返却業務を省略してしまっていいのか?疑問に思ったが、後でやはり後遺症が残った。
 スマホのメールやネットがおかしくなってしまい、それから3週間おかしいままとなった。
 auに二度も行ったが、原因が分からなかったが3度目の正直で、結局、ルーターの貸し出し時に私のスマホの隠し機能の特殊なチェックが入れてあり、これが悪さをして、ネットの繋がりが悪かったようだ。
 結構な金額を取る訳だから、使用後もきちっとアフターフォローすべきである。
 カナダ旅行の終わりは日本に於いても、「カナダ流」のおもてなしか?

 2週間という初めての長い旅だった。
 素晴らしく雄大な山々と表現ができない程の美しい湖、後進国(今は発展途上国)並みのサービスと、食文化の低さ・・・の両極端を味わう旅であった。
 
 丁度1ケ月前、北海道で大腿骨を骨折し、急遽骨を削り、20cm超のチタンを代わりに入れるという大手術をし、お医者に言えば絶対ダメと言われるため、内緒で行ってしまったカナダ旅行。
 この女房の骨折の後遺症は殆ど無く、毎日我々と共に1万歩以上歩いても夜に痛みが出たり、次の日に歩けなくなったりということは無かった。
 逆に今回は凄い”リハビリ”になったのかも知れない。
 当初は完全車椅子旅行かと思ったいたら、殆ど要らなかった。
 それとこの車椅子、電車に預け入れたまま出て来ないため、カナダに於いてきてしまった。

 行く時の、この女房の骨折問題と共に、羽田でのアメリカのVISAの問題、シアトルでのトランジット時のトラブル、バンクーバーのホテル不予約問題、帰りの電車の7時間遅れ、帰国時トランジットのバッグ問題等々、様々なトラブルを経験しながらも、無事に帰ってきた。
 まあ世の中色んな事があるが、どうにかなるもんだ・・・と言うことをこの2週間の旅行で学んだということか!?
 
 それでも、まったくの先進国と思っていたカナダが、ホテル等のインフラや対応がなっておらず、確かにタイとか中国はこれからの国ではあるが、逆に日本の”良さ”を学ぼうとする気運があり、ホテルの洗面所やその他のファシリティが充実してきたり、中国でもウォシュレットのトイレが出始めたりしているが、カナダの少なくとも我々が行ってきた範囲のホテルでは、全くそのような”気”も無かった。
「もうこれでいい、余計なことは考える必用ない!」と国民の殆どが思っているのではないか?
 それは向上心とか、進歩性とかという感覚がない国民なのか?などと考えてみるが、これは常に「世の中は進歩発展して行くものである」という不文律を信じ切っている私には良く分からない。
 それでも、日本車は結構走っているから、全く”無関心”と云うこちでもなさそうだ。

 撮った写真は2000枚弱、それを270枚にして今流行のフォトブックにして松本の姉とタイの兄に送ったらこれが大受けした。

 この旅行記は、写真をもっと増やして、文章も加筆してできれば、電子自主出版にして書籍として残したいと思っております。

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ゴージャスなペンション宿泊・・・ビクトリア

 ”カナダ ビクトリア”・・・とウィキペデイアで調べると・・・。

 1700年代にヨーロッパ人が入植するまでは、先住民族の海岸サリシュ族の居住地域であった。1843年、ハドソン湾会社の手によって作られたフォート・カモザン(Fort Camosun)が起源。のちにフォート・ビクトリア(Fort Victoria)と呼ばれるようになり、1849年、バンクーバー島がイギリス植民地となってからはその首都となった。1858年にブリティッシュ・コロンビア本土に金鉱が発見されると、その補給基地として発展。1866年に本土のブリティッシュ・コロンビア植民地と統合されても、ヴィクトリアは首都の地位を保った。1871年、ブリティッシュ・コロンビア植民地がカナダ自治領に加入してからは、ブリティッシュ・コロンビア州の州都。

・・・となっている。

 午後6時発のフェリーで約1時間、降りてからまた約1時間走って、目的のビクトリアの高級ペンションを目指す。
 レンタカーにはカーナビらしきものは付いているが、操作方法が良く分からないため使えない。
 住所を頼りに街からちょっと外れた住宅街を走るが、それらしき建物は一向に見当たらない。
 私もスマホのGoogleの地図を見ながら、この辺だあの辺だとやるが、なかなか定まらない。
 30分ぐらい彷徨っているうちに辺りは暗くなり、なおさら分かりずらい。
 そうこうしているうちに、そのペンションから電話が入った。
 ペンションには予定の時間からかなり遅れてチェックインする旨は、兄の奥さんから電話で知らせてあった。
 しかし、それにしても遅いため、恐らく迷っているだろうということで、電話をしてきたのであろう。
 その通り、30分以上、行ったり来たりで全く訳が分からなくなっていた。
 場所を告げると、そのままそこに居てとのことで、待っていると乗用車でご主人らしき人が迎えに来てくれた。
 車の後を付いて行くと、今までうろうろしていた通りを行き、細い路地を曲がって、その先が目指すペンションだった。
 このペンション、奥まった場所にあり、看板も普通のホテルの様にネオンが付いている訳でもなく、シャレた小さな字でペンション名が書いてあるだけなので、夜に車で探しても全く分かる訳が無い。
 ちなみに、その場所は、最初に車を運転する兄が、当たりを付けて入ってきた通りの直ぐ横であった。

 このペンションが、また格調高く、ビクトリア風というのだろうか?家の造りから調度品から全てが素晴らしい。
 兄達も、カナダに住んでいた頃は、何度もビクトリアには来たが、このような高級ペンションは一度も泊まってないため、今回は招待旅行ということもあり、費用のことは二の次で申し込んだとのこと。
 姉の部屋は、入って直ぐの部屋だったため、早速覗いてみたが、家具からベッドから壁にかかっている絵から何から何まで昔のヨーロッパの王朝風で凄い。

 ペンションの凄さとは裏腹、この日も未だ残っているカップヌードルをみんなで食べた。
 
 我々の部屋も、3つの部屋に分かれており、真ん中の部屋が食堂になっていて、私がパソコンで仕事をするのにちょうどいい。
 仕事の関係で、色々メールが入るが、日本とは正確には16時間遅れで16時間足すと日本の時間になる。
 手っ取り早く日本時間を知る方法は、8を引けば良い。
 午後4時頃から夜の1時頃が日本の会社の稼働時間帯となるため、メールでやり取りしていると、決まって夜中に突入してしまう。
 会社では、新規の大量受注の注文が確定したと大童状態のようだ。
 この仕事はタイの兄の工場で生産することになっているため、こちらではトップ会談を毎日している。
 大量受注は結構であるが、管理面で体制が整っていないと、様々な無駄が発生し、余計な経費が結構嵩み、また立ち上げ時は材料の仕込み等で資金的にきつくなるため、ビンボウ会社の当社は金策が大変だ。
 新規の安定受注に向け、銀行も簡単に貸してくれるか?というと、そう簡単ではない。
 経営計画書を出し、その数字の信ぴょう性、様々な資料のつじつまが合っているか否か?等々のチェックが厳しく経理担当も四苦八苦の状態。
 資金的には未だ余裕の兄の方は「これからという時に会社を潰すなよ
!」の一言。
 
 せっかくの夢の旅行も、一気に現実に戻ってしまうが、一旦、車でドライブが始まってしまえば、そんな世俗のことはすっかり忘れて写真撮影に夢中になる。
 海辺の眺望のよい場所には、カナダの大金持ちの豪邸が立ち並んでおり、道路側からは門と庭が見える程度で、後は想像するしかなかった。
 そこから、ブッチャートガーデンというフラワーガーデンに向かうことになったが、どこかで道を間違えて、どうも違う方向に行ってしまったようだ、
 Uターンのついでに、海岸の方に降りると、アシカが沢山いた。
 「ヒュー!」っと声を出すと、一斉にこちらを向くため、何度かやって写真を撮っていると、どこからかおばさんが現れて、あまりそういうことはしないように・・・とたしなめられた。
 引き返し、今度は慎重に道を辿って、どうにかその有名なフラワーガーデンに辿りついた。
 
 私は、余り花とか芸術品とかの趣味、素養が無く花の鑑賞とは無縁の人だが、ここの花はハンパじゃない。
 花が好きな人にはたまらないだろう。
 これもネットで調べると・・・。

「かつては石灰石の採石場で、その荒れ果てた姿に心を痛めたブッチャート夫人が始めた、という心温まるストーリーを持った庭園は、100年を超える年月を経て、世界にその名を知られる大庭園になっています。
採石場跡の歴史が見てとれるサンクンガーデン、ローズガーデン、日本庭園、イタリアン・ガーデン、地中海庭園が広がる園内は、四季を通して常に花壇が保たれるように、大勢の庭師により徹底管理されているため、どの時期に訪れても美しい庭園を楽しむことができます。」

「庭園を充分堪能するだけでも少なくとも1時間半~2時間はかかる。また、入口付近に併設されているギフトショップでは、お花を使ったエッセンスオイルや石鹸、フラワーモチーフのマグカップや花の種など、お花好きにははしゃぎたくなるようなお土産を取り揃えているほか、The Dining Room Restaurantでは庭園を見ながら人気のフラワーランチやアフタヌーンティーが楽しめ、1日中居ても飽きることはありません。」

 ・・・と言うことであるが、レストランのパンはやはりそれなりで,旨いという程のモノではなかった。
 
 もっとじっくり広大な庭を見たかったが、途中で結構凄い雨が降り出してきたため、急遽お土産物屋さんに飛び込んだ。
 お店には色んなモノが売っており、兄達は結構高額でセンスのいい鉄製の壁飾りを買い、私はちょっと気に入った帽子が見つかったため購入した。

 翌日は、いよいよ旅行最後の日。
 この日は朝から街に繰り出した。
 駐車場で大分苦労をした。
 ビルの下に駐車場が結構ある。
 最初に入ろうとしたら、車の屋根の高さが足りなくて、車のキャリー部分が天井の高さ制限に引っかかる。幸いストッパーがフレキシブルになっていて車には傷はつかなった。
 次の駐車場は高さ表示がちょっと高かかったので、どうかと思ったが、やはりぶつかる。
 街の中をグルグル回りながら駐車場を探し、結局、ちょっと離れたビルの駐車場ではない普通の路地の駐車場に入れた。
 
 この街は、バンクーバーの街とまたちょっと違い、古い建物が立ち並び英国文化が色濃く残っている。
 メインは何と言ってもハーバーの正面に位置する荘厳な二つの建物。
 一つは、兄達がいつも泊まっていたという「エンブレス・ホテル」と歴史あるブリティッシュ・コロンビア州の「州議事堂」。

 このハーバーには午後行くことにして、午前中はお土産を買い込もうということになり、まずはデパートに入る。
 ここで私はなぜかパジャマを買った。
 以前に海外で買ったパジャマが私にピッタリで、10年来ずーっとそれを愛用しており、その後何回も日本で買うが、なかなか気に入ったモノがない。
 そこで「海外」=「私の気に入るパジャマがある」・・・と言うようなトラウマと逆の感覚が働いたものと思われる。
 今のところ、こちらに戻ってからは急速に寒くなってしまい、夏物のこのパジャマの評価は来年の夏に持ち越しそう。

 お土産物屋に入る。
 しかし、メイプルバターがジャスパーのスーパーが一番安かったということで、お土産はここでもスーパーに行って買おうということになった。
 私は年末の忘年会で毎年エルビス・プレスリーをやるが、このサングラスが壊れてしまっており、カナダ上陸後ずっと探していたが、ようやくまぁま
ぁのモノが見つかったため、多少高かったが買った。
 
 スーパーは日本ではすぐに見つかるこの街ではスーパーがなかなかみつからない。

 スーパーと云えば、私は女房が脚を折り入院している間に一人でスーパーに行かざるを得なくなった。
 結婚後一人でスーパーに行くことはまず無かったし、女房と行ってもなにせ買い物を選ぶ時間が長いため、あの底冷えする寒いスーパーには出来るだけ近づかないようにしていたためだ。
 そして一人でスーパーに行って思った。
 私もこれで立派な「スーパーマン」になったぞ・・・と!?

 話をビクトリアに戻そう!
 
 結構な距離を走って郊外まで行き、ようやくスーパーらしきところへ入
ったが、肝心の標準となるメイプルバターは置いてないし、お土産になるようなモノが余り置いてない。
 観光の街としてお土産と生活用品との売り仕訳が徹底しているのか?それは私の推測にすぎないが・・・。

 そこからまたビクトリアの街に戻り、ショッピングモールがあったため、日本的感覚で当然スーパーも併設されているだろうと思い入った。
 ここのショッピングモールでは、兄と私が靴にハマり、結局二人とも、カジュアルな布のシューズを買い込み、そのまま履いて歩くことにした。
 
 かれこれお昼になると言うので、日本でもよくあるファーストフードが立ち並ぶフードコートで食べようということになった。
 それぞれがそれぞれ自分で美味しそうなサンドイッチやら、ハンバ‐ガーを選んだが、「これは旨い!」というような声はやはり聞かれなかった。

 午後は、例のハーバーに行く。
 ここはビクトリア最大の観光スポットで人が沢山いたが、最盛期にはとても歩けないほどの混雑になるとのこと。
 港の周りを色んな露天商が立ち並び、それもこのハーバーの景色の一つとなっている。
 ギターで歌っているオジサンがいたため、ギターケースにコインを投げ込むと歌いながらニッコリした。

 日本人で絵を書いて売っている人がおり、兄がその人と話込み、この辺の景色を織り込んだ絵を兄は買い込んだ。
 私はこの貴重な時間を逃さず、50倍ズームのミラーレスのカメラで、シャッターチャンスを狙う。
 果たして、とても美形の女性がカメラに納まった。
 こちらの女性は中年になると皆さんぶくぶく太ってしまって見る影もないが、若い人で綺麗な人は結構いる。


 やがて、夕方になってきた。
 最後の晩餐は何にしようか?ということになった。
 姉は、日本食でお寿司が食べたいという。
 しかし、私はせっかくカナダまで来て最後に日本食というのは如何なものか?と思い、未だ時間があるためどこか気の利いてそうなレストランを探して美味しいディナーを食べようと提案した。
 これまで裏切られ続けてきた”カナダの食”に最後の望みを託し、ハーバーの近くのレストランに入った。
 結果的には、「またしても!」ということになった。
 姉の言うように無難に寿司にしておけばよかった・・・のかも知れない。

 ”最後の晩餐”には見事失敗してしまった。
 さて、明日はいよいよ帰国の途に就く。
 二週間というなが~い旅行もエンディングを迎える。 

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時間の観念の全くない列車

前日の2時間遅れの列車の確認をしたら、何と今日は4時間遅れになっているという。

 その次の日程は、バンクーバーからビクトリアへレンタカーを借りフェリーに乗ることになり、そのフェリーがシーズン中は予約をしないと乗れないことがあるということで、兄の方で予め十分に余裕時間を取って予約をとってあったが、4時間の遅れでは余裕時間の域を超えている。

 朝、案内のカウンターに黒人のお兄さんがおり、唯一のイングリッシュスピーカーの兄の奥さんが頼むと、快く予約の変更をしてくれた。

 バンクーバー9時42分着で12時発のフェリーを5時間ずらして午後5時のフェリーに変更した。

 それにしても、この列車、午後2時前の出発が夕方の7時近くになるため、このジャスパーで一日待ちぼうけになる。

 こういった場合は、その時間を利用してどこか一日観光とかという気分にはなれない。

 結局、ホテルをチェックアウト後、駅まで行き駅で大きな荷物を預け、街をぶらぶらする。

 この街もバンフに負けず劣らず小さな観光の街で10分も歩けば店が無くなってしまう。

 最初はじっくり駅前に並ぶお土産物屋さんに入り、お土産を見つけて歩いたが、どの店も同じようなモノが置いてあり、やがて飽きる。

 スーパーがあって、そこがカナダの特産メイプルバターが一番安いと、お土産に沢山買い込んだりした。

 公園があったため、ベンチに座って待つが、結構肌寒いため、手荷物を置いて代わりばんこに、アチコチの店などを覗いたりした。

 やがてお昼の時間となる。

 ガイドブックに日本料理の店があるため、そこへ行こうということになった。

 日本人のオーナーらしき人が厨房にいて、金髪の若い娘が、お茶を運んできて注文を取っている。

 大変かわいらしく愛想もいい。

 よくよく見ていると同じ服を着て同じような顔の女の娘が二人いる。

 恐らく、姉妹か双子かどちらかだろう。

 ここでウドンとか寿司を食べたが、ここは結構美味しかった。

 何せめったに美味しいモノが無いから、ちょっと普通(日本のレベルで)の味に出会えば、最高に美味しく感じるという状況でもあったが・・・・。

 その可愛いウエイトレスのお姉さん二人にお願いして写真を一枚パチリ。

 この店が待ちぼうけ中の最大のヒットとなった。

 その先にパン屋があるとガイドブックにあり、探して歩いたらすぐに見つかったが凄い混雑。

 その夜の電車の中の夕飯用にその列を作るパン屋さんのパンを沢山買い込んだ。

 後はやることもなく、駅の待合室を陣取りひたすら待つ。

 それでも・・・と思い、私は抜け出して街に行き、シャッターチャンスを狙うが、これと言ってカメラの被写体になるような風景や建物も少なく、なかなか時間は潰せない。

 4時頃、駅員が一枚の貼り紙を持って来て掲示板に貼った。

 4時間遅れがもう2時間6時間遅れになるという貼り紙だった。

 最終的には13時40分発が、7時間近い遅れの夜8時半発で列車が出発した。

 夢の大陸横断鉄道かと思ったがエコノミー車両はえらく古く、とても「夢の・・・」という表現は使えず、おまけに一番の前の席でトイレが目の前、それもあちらの常識では、中に人がいるかいないか分からないため、ドアは開けて置くのだとのこと。

 ここで20時間近く過ごすのかと思うとちょっとうんざり・・・と云う感じであった。

 座り込むと早速あの行列のできるパン屋さんのパンに食らいついたが大して美味しくない。なぜあの店にあんなに行列ができていたか?不思議だ。

 みんなの意見は、「他にパン屋さんが無いのでしょう」ということだった。

 その夜は、どうにか疲れも手伝って眠りについた。

 朝目が覚め窓の外を見ると、谷と谷の間を川が流れ、その川沿いにこの鉄道が走っている。

 時々150両近くあるながーい貨物列車がすれ違う。

 短いトンネルがいくつもあり、同じような景色が延々と続く。

 朝飯は食堂車で食べようということになり、荷物があるため順番に行こうということになった。

 食堂車までは何両も歩く必要があり、いちいち重い引き扉を開けたり閉めたりしなければならない。

 また寝台車の車両の通りは狭く、大きな外人とはとてもすれ違えないため、結構歩くだけでストレス。

 私は兄夫婦が最初に食堂車に行くと言うので、一緒に視察がてら行ったが、途中で引き返すのが嫌になり、途中の人がいない車両・・・恐らく軽く食事やお茶を飲むための車両であると思うが、フリーの車両があったため、そこへ座って、兄達が食事を終わり、女房や姉と交代するのを待っていた。

 ところがその車両にパンと飲み物が置いてあり、時々乗客らしき人達が来て食べたり飲んだり持って行ったりしているため、私もそこのパンと飲み物を戴き、朝飯とした。

 タダだからうまいとかまずいと言う話は無しで食べた。

 バンクーバー到着は4時だという。

 4時に到着し、バッグを取り出してからタクシーに乗り、街のレンタカー屋に行き、そこからフェリー乗り場まで行くと5時のフェリーは殆ど無理であった。

 結果から言うと間に合わなかった。

 途中で3時15分頃にはバンクーバーに着けそうと言うような情報が入り、みんなで喜んでいたが、確かに3時過ぎにはバンクーバーの近くまでは行ったが、そこからがいけない。

 列車がスロ-なったり、止まったりで、なかなか進まない。

 そこへ持って来て、何の都合があったのか、逆に後ろにスィッチバックをし始め、そのうちに前に進んだりしていて、列車が定まらない。

 最終的に4時15分頃下車し、急いで駅舎に向かいバッグを待つが、これが待てど暮せどなかなか出てこない。

 20分ほど待ってようやく出てきたが、女房の車椅子がなかなか出て来ない。

 兄夫婦は、先にバンクーバーの街中のレンタカーの店に行き、我々3人が残ってこの車椅子を待った。

 最後の最後まで待ったが、結局出て来ない。

 バッケージクレームの紙は兄夫婦が持って先に行ってしまっているし、私の英語力で交渉しても自信もないので、女房と相談し、この車椅子は殆ど必要もも無いため、ここに捨てて帰るということにした。

 日本では、あの超スピード、超過密ダイヤで走る新幹線が1分たりとも狂わないのが当たり前であり、ちょっとでも遅れたら、構内放送でうるさいほどのお詫びと状況説明が行われるが、今回のこのカナダの現場では、構内放送は無し、掲示板に手書きで何時間遅れると何度も表示されるだけ、乗客もこれが当たり前かのように抗議をする人も無く、おとなしく列車が来るのを待っている。

 列車に乗ってからも、乗務員の態度が我々黄色人種への差別が未だあるのか非常に態度が悪い。

 結局、遅れたからという理由で、お昼にそんなに美味くもないパンと飲み物とお菓子を配給しただけで、何の悪びれた様子も見られなかった。

 私は、カナダは先進国だと思っていた。

 中国の航空便は2時間や3時間は当たり前で遅れ、5,6時間ということもたびたびあったが、先進国カナダがまさか一日一本という列車が6時間も遅れ、しかもそれが当然の如くに行われている事実は、私にとっては驚愕的な出来事であった。

 日本が世界の中であまりにも設備面、対応面、ホスピタリティ面等のインフラが整い過ぎているのか、たまたまこの長距離列車に限っての出来事だったのかは分からないが、海外旅行中の6時間という貴重な時間をさしたる理由や説明もなくただただ持って行かれてしまったということ体験は、中国ならあきらめもつくが、先進国カナダでは如何なものであろうか?

 たまたま日経ビジネスに日本の鉄道事業のグローバル化の記事が載っており、これを読んでいたら、面白い記述があった。

 川崎重工の米国での鉄道車両のシェアが首位の米国企業を追い上げる第二位で23%を占めるということだ。

 その中の記述で「米国では保証期間が過ぎた後、車両が故障した場合、欧米ではすぐに弁護士を送り込んで来るが、川崎重工は保証期間か否かに関わらず、故障時にはまず技術者を送り込み問題解決をまず優先するという。

 こんなことは日本では極く当たり前のことであるが、アメリカではとても新鮮に映り、評価され始めているという。

 このような事実は、私が常に主張し続けている「良いモノは良い。時間がかかるかも知れないが、良いモノを造り続け、地道にこれを伝え続ければ必ず、この技術は世界中に広がるだろう」ということの証明となるかと思う。

 技術立国日本は、決して焦る必要はない。どの国よりも良いモノを造り、良いサービスをし続けるならば、必ずや徐々に徐々に世界に浸透して行き、最終的には「憧れの日本製品」「憧れの日本流のサービス」となり、日本の製品も勿論、サービスも食品やカルチャーの様な文化そのものが全世界に広がるということだ。

 あの「ジャパンアズナンバーワン」の日本は、バブル崩壊後の1990年代以降の景気低迷から、「失われた10年」、「失われた20年」という時間の中で日本はすっかり自信を失い、「グローバル化」という言葉にただただ踊らされ「低価格でなければモノは売れない」・・・「だから安い労働力のある場所でモノを造る」という本物のモノ造りの精神を忘れ、日本の中核技術である中小零細製造業をバサバサ切り捨て猫も杓子も中国や東南アジアへとシフトして行った。

 今は旅行記を書いているので、この辺で話を戻そう。

 結局、5時のフェリーは間に合わず、レンタカーで6時のフェリーにどうにか乗ることができた。

 予約の5000円はパーとなった。最初の予約金3000円と合わせると、8000円がパーになったのである。

 フェリーは問題なく兄が最もお奨めのカナダ旅行最終となる美しい観光都市ビクトリアに向って突き進んでいる。

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コロンビア大氷原からジャスパーへ

エメラルドレイクで、写真を撮っていると、約束の9時半にガイドさんがやってきた。時間は正確である。

 前日と同様5人がそれぞれ車に乗り込み、一路コロンビア大氷原へ向かう。

 周りを3000m級の山々が取り囲み、途中展望台から「カラスの足」と呼ばれる氷河=「クロウフット氷河」を眺める。以前は3本の足だったようだが、その後氷河が後退し、現在では2本になっている。

 ちょうどお昼近くになり目的のコロンビア大氷原に着いた。

 すぐ目の前に大氷原が広がり、5,6分バスで行き、そこから雪上車に乗り換えるのだという。

 気温もグーンと寒くなり、持って行ったユニクロの軽いが大変暖かいダウンジャケットを着こみ、更にその上にジャンパーを着込むと備えは万全。
 

 ビッフェスタイルのお昼を食べた。私はカレーがあったため少しだけ盛って食べたが、やはりご飯の味がイマイチで余り美味しくはなかった。

 ガイドさんの案内でまずは氷原までのバスに乗り込む。

 運転手兼ガイドのお姉さんは歌手なのだそうだ。

 何を言っているか分からないがお客に発した軽快なトークに反応してバスの中が盛り上がっている。

 そのうちに運転しながら歌が始まった。

 なんと今日本では大人気の「アナと雪の女王のテーマ」でメチャうまい。この曲や映画は、こちらでもかなりヒットしているのだろう。

 日本だと、運転手とバスガイドの二人体制になるかと思うが、こちらは須らく一人で二役、運転しながら超一級の歌をお客に聴かせるところは流石カナダの面目躍如といったところか?

 あっという間に、氷原に着きバスを雪上用のキャタピラではなく馬鹿でかいタイヤの車に乗り換え、氷の上を走って行く。

 雪上車から降り立つと、そこは全くの氷というか雪の上、ところどころに融けた水が流れて小さな筋状の川になっている。

 これが下に流れて行ってあの青い神秘的な湖になるのである。

 ここの水そのモノはかなり冷たいが極く普通の透明であった。

 30分ほど、写真を撮ったり、アチコチ歩いてみたりしてバスに戻り、バスを乗り継いでロッジまで戻った。

 そこからジャスパーというカナディアンロッキーの終着となる街に向かう。

 途中大きな滝があるという。

 結構な幅もある川が急にカーブし、谷のような狭いところへ落ち込み、更に穴の空いた岩に流れ込むため、結構な迫力がある。

 そこからしばらく走るとジャスパーの街に着く。

 ガイドさんの話によると、最初に予定していた駅前のホテルが取れなかったため、同一料金でちょっと離れてはいるが、格上のホテルを予約してあるとのことである。

 ホテルは確かに悪くは無かったが駅までは遠いため、気軽に街に出る訳には行かない。

 しかしその近くにはガイドさんお薦めのステーキハウスがあるという。

 夜はそこでディナーで決まりである。

 そのホテルで、二日間我々の面倒を見てくれたガイドさんと別れ、明日は大陸横断鉄道に乗ってバンクーバーまで帰ることになる。

 ガイドさんにお礼のチップを上げると、一所懸命固辞している。

 こちらではチップを出すのが当たり前で、これが非常に面倒であったが、時々お釣りをきちっと要求しないとそのまま結構な金額をチップとして持って行かれたりするこの国で、ジェスチャーでもチップを断る姿はとても新鮮で、すがすがしく思えた。

 その後、ベルボーイのチップをどうするか?まとめて払うか?それぞれが払うか?決まらないまま部屋に入り、結局二重払いとなってしまった。

 こちらでは、「さっきもらったからいいです。」などという言葉はとても出てきそうにない。

 さて、お待ちかねのディナーである。

 多少半信半疑の部分はあったが、ガイドさんの”お薦め”を信じて、ホテルから5分位歩いてステーキの店に行った。

 運よくスンナリ5人座れた。

 とにかくこちらの料理は量が多いため、とてもひとりずつという訳には行かない。

 適当に選んでみんなでシェアする。

 最初のサラダが美味しい。

 大体料理は一品でも美味しければ後は押して図るべし・・・である。

 果たして出てきた肉は・・・・!?

 これが例の赤身の肉ではあるが大変美味しい!

 当たりだ!

 5人で3人前位で、量もちょうど良い。

 久しぶりの美味しいディナーを満喫した。

 ついでにデザートにアイスも頼んだが、これもかなり大きかったので、みんなでつついて食べた。

 翌日は、いよいよ大陸横断鉄道に乗ってバンクーバーに戻る。

 ガイドさんから今現在2時間遅れている・・と聞いていたが、明日までには戻るだろうと思って誰もあんまり気にも留めず、その夜は、美味しいステーキも食べたし、満足して明日の「夢の大陸横断鉄道」の豪華列車を夢見て早めに寝た。 

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