ハードディズナイト・・・忙しい日々

先月終わりから先週金曜日迄、休みなしの忙しい日々を過ごした。
 11月26日、先般の「ものづくり大賞NAGANO」グランプリ受賞に伴う信越放送(SBC)の会社取材で、ほぼ丸一日、翌日「上海の車部品の展示会=オートメカニカ2018」に出展のため上海行き、12月1日迄、4日間の長い展示会、12月2日の日曜日に帰国、3日は2組の来客、4日は東京方面の得意先での打ち合わせ、5日、6日、7日と来客と、忘年会関係の打ち合わせ、準備で大童、8日は忘年会の準備とリハーサルで終日動き回り、9日は「第18回結いの里こもろ大忘年会」、打ち上げが終わるとクタクタ、翌10日は来客のラッシュ、11日こちらも来客、午後のお客は、ロケット部品のお客。
 翌日は始発で岡山へ向かい、その翌日は新規のお客で、大阪、京都と2軒寄って戻り、そして金曜日は、またしてもテレビ収録のため、長野のSBCの放送局へ行き、経済評論家の先生と対談形式の収録、ようやく昨日今日と3週間ぶりの休日となった。
 72歳のこの歳では一寸過酷なスケジュールであるが、今年は風邪もひかずに元気でやってきている。
 上海はひどかった。
 空気が汚い。
 気管支が弱い私は呼吸困難になりそうになった。
 また展示会の会場の混みようには閉口した。
 行きも帰りもメチャ人が多い、特に帰りは展示者と来場者が一緒くたに帰るため、わざわざすぐそこにある電車の改札からぐるーとトンデモナイ距離を大回りで歩かされて、一度に改札に群衆が押し寄せることを防ごうとしているが、その距離が生半可の距離では無い。隣の駅に歩いて行った方が近いぐらい長い距離であった。
 エスレ―ターなどにはいっぺんに寿司詰め状態に載るため、降りる時のタイミングが非常に難しいが、あちらの人達は難なくひょいひょい降りている。
 こんなに多くの人が乗り続けたらその内、壊れるんじゃーないか?と思ったが、果たして最終日は予想通りガタっと止まってしまった。
「エスカレーター、止まれば只の階段ダ!」
 Buzz Videoでやっていたが、中国でこれが滑り落ちて人が倒れて大騒ぎとなった映像があったが、私の方はただの階段になっただけで助かった。
 展示会そのものは、EV大国中国ということで、当社の展示品の中でも車のモーター関係に7~8割方関心が集まり、それもセグメントタイプといって、日本の大手が採用している方法の技術とか製造装置を売って欲しいという話が殆どであり、当社が得意としている巻線して圧縮するような話まで発展することは全く無いため、私尾は4日間詰めても殆ど出番が無かった。
 確かに中国はEV化が進んでいるとは思うが、目の前の課題解決が先決であり、いかに日本を始め海外の進んでいる国の技術を取り入れ、すばやく車を作り上げるか?が一番の課題であり、これから研究開発をしてじっくり次の時代の技術を探そう・・・というような意気込みは少なくともこの展示会からは感じられなかった。
 先端を行く要素技術はこの国では今は不要なのだ。
 この大変込み合って空気が悪く、その上期待した程の成果もあげられなかった状態の展示会に比べ、夜に出かけた上海タワーの川の周辺の景色は絶品だった。
 イルミネーションとライトアップのこの景色は大変美しく、夢の様な景色だ。
 正に中国の光と影ではないが、非常に文化的に素晴らしい面と、以前の東京を思わせる空気の汚さ、国際展示会と云うには強制労働者のように集団で相当の距離を歩かされる展示会、エレベ―ターが途中で停まってしまうような面が同居する発展途上の国であった。

第18回結いの里小諸大忘年会」
 私の1年の仕事以外のニコニコグループ、新老人の会のような様々な付き合い、またスタジオ関連の音楽関係の付き合いの総決算がこの忘年会である。
 特に、音楽関係は年々色んなミュージシャンとの付き合いが広く深くなって行き、だんだんこの忘年会が紅白歌合戦に出られるか?出たか?のようなイメージの状況となってきている。
 勿論、これは私のプロデュース、演出によって組み上げて行く。
 今年はこの演出がまた大当たりで最後の握手会で全員と握手して回るのだが、皆さん異口同音に「良かった!」、「最高!」、「素晴らしかった!」等々の声が上がった。
 私の出番は4曲歌い、1曲ジャズダンスを踊ったが、まぁまぁのできであった。
テレビ出演
「長野県ものづくり大賞」のグランプリを取ったということで、このところ新聞にはあちこち載り、ラジオに出る、テレビにも受賞ニュースを合わせると3回出ることになる。
 この一番の番組は暮れの29日の2時35分から3時迄の25分間であり、この会社収録とスタジオ収録があった。
 会社の方は私のインタビューの他、営業、開発の責任者のインタビューがあり、スタジオでは経済評論家の先生との対談形式で行われた。
 スタジオ収録は10年前のおやじロックバンドでNHKに立て続け3回出た時の3回目がスタジオで生出演した時以来の経験となる。
 あの時もそうだったが、この正味10分位の収録のために5~6人の人達が2時間以上かけて準備をする。
 メイクの人に一応顔を多少見れるようにと・・メイクしてもらう等、結構本格的な準備をする。
 でも、あの収録時の5,4,3,2・・・の時のちょっとした緊張感は何とも言えない快感ではある。

 仕事
 仕事の方は、あちこちから様々な試作の依頼が舞い込み、特にEV化の影響で、車のモーターの話が色々と出て来る。
 中国と違って、流石日本は当社の圧縮成型コイルにもかなり関心を持ってもらえる。
 この技術が世に出るか否かは当社にとっても大変大きなターニングポイントとなるため、来年は当然勝負の年となりそうだ。
 また当社のコイルは今、衛星用ロケット、「イプシロン」、「H2A」,{H2B},それから{H3}ロケットにも搭載されることになる。
 今ドラマで「下町ロケット」をやっているが、当社のコイルがないとロケットは飛ばないということになる。
 数が数で売り上げにはならないが、「コイル技術世界一」を目指す当社としては安全性、信頼性、高特性等々の証明として、これは大きなテコとなる。

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パナソニックのレッツノート~日本再生への道

日経ビジネスにパナソニックのレッツノートの記事が載っていた。
タイトルは「パソコンは未だ稼げる」
世界のパソコン市場のトップ3は、①中国レノボ・グループ、②米ヒューレット・パッカード、③米デルで、日本は、価格競争に負け、存在感は殆どない。
 そんな中でパナソニックが頑張っているという。
 神戸市のパナソニック神戸工場でレノボ・グループが年6000万台規模に対して、年100万台ではあるが、規模を追わず、顧客ニーズをきちっと捉え、効率を上げる工夫をしながら生産している。

 日本の家電は、ここ20年ほどの間に、殆ど中国や韓国、台湾に持って行かれてしまった。
 その一番の要因は、とにかく安さの追求=安く造って大量に販売することこそが、グローバル化に対応して生き残る道だと思ったからである。
 そこから、“メイド・イン・ジャパン”という考え方は自ずから消え去り、安ければどこで造ろうがOK・・・という考え方が蔓延した。
 日本のメーカーは中国の安い労働力を当てにして、我先に・・・と中国へ出て行った。
 そこで起こったことは、“自明の理”である。
 日本のモノ造り技術がドンドン中国に根付き、やがては中国で品質的にも変わらない製品が出来るようになってしまった。
 当然、巨額にして巨大な日本の本社組織を抱える日本は、中国とか韓国の身軽な企業と闘っても、コストでは勝てない。
 結局は、ただただ技術を教えて、仕事を取られてしまっただけなのだ。

 これまでの話は、誰もが知っている日本の家電市場喪失のストーリーかと思うが、以下に私の考え方を披露したい。

 日本のメーカーはバブル崩壊後、こぞって中国へ生産移管をしたが、これはすべきではなかった。
 ・・・というよりも、少なくとも日本に生産を残すべきであった。
 日本のモノ造りは、特に部品は、日本の中小零細企業が賄っていた。それもかなり精度の高い、優れものだった。
 良く”過剰品質“と言われるが、正に過剰品質で我々は部品を造っていた。
 なぜなら、メーカーがそれを望み、それが出来なければ、我々は生き残れなかったからだ。
 当社は、ドットプリンターのソレノイドコイルとそのアッセンブリ―がメインだったが、抵抗値の管理は非常に厳しく、12個いっぺんに巻く機械で、結構バラツキのある電線やボビンを使用しながらも、抵抗値をど真ん中に調整すべく、線の張り(テンション)の調整をしたり、巻の調整をしたり、涙ぐましい努力をして巻線をした。
 なぜなら、もしそのコイルに抵抗値の規格が外れたものがあったら、即得意先は即連絡してきて、工程に数量の余裕がなければ、否応なしに数人得意先に飛んで行って測定・選別、上手くして、全数返品で再検査、となるからだ。
 これもそのうちに、“社重”といって、得意先の受け入れ検査を無くす代わりに、全面保証・・・・というような、今から考えれば、無謀なことを下請けに背負わせていた。
 しかし当時の”下請け”は、とにかく得意先から言われるままであり、我々はその重圧から逃れるために、さらに管理を強化して、巻線し、検査し、もしも数値が真ん中から少しでも外れ始めると、即調整し、とにかく”ど真ん中“以外は製品じゃー無い・・・という位の管理をしていた。
 しかし今考えると、これが”メイド・イン・ジャパン“の正体だった。メイド・イン・ジャパンは過剰品質そのものだったのだ。

 それでは、各メーカーが中国や海外で自社で造った部品、或いは近隣の安い部品を購入して組み立てた製品は、果たしてどの程度のモノだったのだろうか?ということである。
 私が海外移管後、行ったあるメーカー(以前当社が巻いていた)では、この12本いっぺんに巻く巻線機のノズルを月に何十本も交換していると聴いた。
 一本確か当時6,7千円したノズルは、当社では1本曲げたり、折ったりしたら「始末書モノ」で大騒ぎしたものだったが、このメーカーは、機械の台数も多いかもしれないが、何十本もダメにしていた…すなわち、巻が乱れていることが容易に想像できるのである。
 巻が乱れていては抵抗値は間違いなくバラつく、プリンターの印字が日本の頃とは比べ物にならない位のレベルになっているはずである。
 これが、”メイド・イン・ジャパン“の消えた大きな要因なのである。

 現在、パナソニックが国内で今なお、もうとっくに消え失せたはずのパソコンを造っているということは驚きであった。
 ソニーから独立したVAIOの存在は知っており、私のパソコンはVAIOだが、まだパナソニックのパソコン生産が国内で生き残っており、それも採算が取れ、業績が伸びている…という事実は、多少日本のモノ造りに光明を与える事例かと思う。
 願わくば、その部品は国内製・・国内の中小零細メーカーのモノであれば、いうことは無いが、これは私には分からない。
 しかし、これが日本のこれからの向かうべき道の一つであることは間違いない。
 特に、パソコンとかの重要な製品は、日本の最高級のモノ造りで対応すべきである。最高の品質=我々中小零細が造るバラツキの無い優れた製品である。
 私は今は各個人にとって一番大事な“スマホ”は国内で、前部品国内調達で造るべきだと思う。最初は国内の少数派から始まり、やがては世界中のスマホは日本製になるのは間違いない。
 混ぜなら故障が殆ど無くなるからである。

 国内で造れば高い…というが、これから量さえあれば、いくらでも自動化、ロボット化が可能であり、その自動化、ロボット化も日本が世界で一番得意な分野である。
 自然エネルギー活用で電気代を極力カットして、オール自動で、大量に先校の品質の製品を造る・・・
“安くて品質ピカ一”、これが”メイド・イン・ジャッパン“の復活となる。

 すなわち日本再生につながるただ一つの道なのだ。

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国谷裕子信州岩波講座 SDGs

SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)とは、2015年9月の国連サミットで採択された、2030年までに「持続可能な社会をつくる」ために、世界で取り組むべき行動を示した17つの目標です。

ネットにこう書いてある。

私は国谷さんが23年間続けたNHKのクローズアップ現代を不本意ながら外されてから、報道ステーションの古賀茂明さんと共に一度話を聴きたい一人だった。

 日本の報道の在り方が、あのころから変わり始め、今や政府に批判的な言動をする番組はほとんどなくなってしまった。

 今香港では大騒動が起きているが、日本では色んな報道弾圧が行われても、だれも気にもしない。

 とてものどかで平和な国だ。

 国谷さんも、このことについては、講演では触れようとしなかったが、せっかくフリーになったのであれば、どんどん、日本の報道の現状について意見を言って欲しかった。松本芸術館を埋めた多くの人達も恐らくこのことが聞きたかったのかと思う。

 国谷さんのお話は、SDGsについてであった。

「持続可能な・・・」という言葉は、私の昔の記憶を蘇らせた。

 高木義之さんである。

 今から20年以上前の話である。

 仕事人間だった私が、突然目覚め、人間の生き方・考え方とか無農薬野菜と化学肥料、農薬、食品添加物の害、そして地球環境の問題にのめり込んで行った。

 その手の本を200冊以上読み、また日曜ごとに会社の空き社屋を利用して、近隣の農家の人達と、無農薬の野菜だとか無添加の食品だとか、EM発酵させた生ごみを食べさせた鶏の卵とかを売ったりしていた。

 高木義之さんの講演を先頭に立ってセッティングし、追っかけをやって大阪まで行き、丸一日のセッションを受けたりしたこともあった。

 仕事そっちのけで、会社の食堂で、高木さんのお話を聴く会も開いた。

 その時の、講演のビデオ、カセットテープ(CDはまだ無かった)、本を殆ど全て買い揃え、何度も繰り返し聞き、「地球温暖化」、「オゾン層の破壊」、「人口爆発」、「種の絶滅」、「森林破壊」、「食料自給率」等々、様々なテーマについて、自分で講義できる位できるような状態になった。

 考えてみれば、いくら高木さんが声高に叫んでみても、いくら私のような狂信的な信者が自分のできることをやったとしても、時代の流れは、一向に止まらず、あれから20数年、高木さんが警告した通りの世の中に今、なってしまっていた。

 その中で、ちょっと違ったのは、「エネルギー枯渇」の問題で、20年後、すなわち今頃は石油エネルギーが枯渇しているはずであったが、未だに中東も枯渇せず、逆にアメリカのシェールガスなどで、まだまだ当分賄える状態にある。

時代を読むに良く間違えるのは、「技術力の進化・進歩」である。

石油の切削技術の進化、シェールガスを掘り出す技術の進歩によって局面が大分変わってしまった。

私は、その後、会社の売上が奈落の底に落ち、だれもやりたがらない社長となり、自分のやりたい、やりたくないの気持ち拘わらず、会社をどうにかしなければならない立場に追い込まれて行ったのであった。

 ただ、私が心を痛めた問題が勃発した。

 東日本大震災時の福島原発事故である。

 原発の問題は、その危険性は叫ばれていたものの、実際にあのような事故が起きるまでは、殆どの人が何の危険も感じないで来た。

 この小さな地震国に原発を54機も作ってしまったことはもはや取返しもつかない。イーズスアシュアとか言う前に、原発テロの防御を考えるのが、国として大事なことなのは、だれが考えても明らかである。

 北朝鮮は、夜な夜な日本に侵入し、何人もの人を拉致して行った。

 夜な夜な、原発に忍び寄って爆弾を仕掛けるくらいのことはお手の物ではないか?と思う。

 とにかく、私たちは子供や、孫たちに偉大なる負の遺産を残すことになったのは間違いない。

 国谷さんのお話は、やはり洗練されていてなかなかのものであった。

 しかし、仕事人間だった私をのめり込ませた、あの時の高木さんの迫力にはとても及ばない。

 高木さんは、今のようなプロジェクターのない時代に、フィルム状の投影機を使って、様々な記事とか、数値を駆使して会場の一般人を説得して行った。

 地球環境問題は最早どうにもならない。

 国谷さんのお話では・・・・・。

 人はどんどん増え、どんどん贅沢になって行く。➡人口爆発

 水も食料も、とても賄いきれるものではない。➡食料不足,水不足

 食料を採るためには、森林を畑にする必要があり、➡森林破壊

 そのことが二酸化炭素のさらなる排出を促し、➡地球温暖化

 海水が上昇し、今まで住んでいたところに住めない人達が続出、➡難民問題、貧困問題

 難民が都市に集まり、都市のスラム化からテロ集団の発生、それが不安定な世の中にする。

 ちょっととても持続可能な世の中は無理のようだ!

 今、年金問題が騒がれているが、私はこの環境問題を追っかけている頃、盛んに「日本は姨捨山状態」になると叫んでいた。

 少子高齢化が進むととても自分の親を見る余裕がなくなり、「早く死んでくれ!」という状態になる。

 これを防ぐためには、今から自給自足をし、自分たちの事は自分達でできるようにし、ピンピンコロリ人生を目指そう!と色んな企画や案をまとめ、「結いの里こもろPPKセンター構想」なるものを打ち立て、実現に向けて盛んに発信したりしていたものだ。

 20年以上経った今も、この構想は捨てていない、私の最後の事業として、できれば私と関係した人達だけでも、どうしようもない時には、このセンターに入ってもらい、どうにか人間らしい最後を迎えてもらいたいと思っている。

それにはかなりのお金と体力が必要となる。

身体を鍛え、コイル事業の発展が必要となる。

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