鴻海がシャープを買収 日本のモノ造りは!?

シャープが台湾の鴻海精密工業(フォックスコン)に買収された。
「亀山モデルのシャープ」といえば、一世を風靡し、“これぞメイド・イン・ジャパン製品”と日本が誇った会社である。
私が常に唱える「モノ造りの国=日本」は今や風前の灯状態となりつつあるのか?
先般、中国の携帯大手の会社の日本の研究所から来た技術者のお二人はそれぞれ日本の大手家電メーカーに居られた人達であったし、聴くところによると、アップル社のiPODを作ったのは日本の技術者だったとのことである。
これは、日本がダメというよりはむしろ、日本の家電メーカーがダメ、といった方が良さそうだ。
自分のところで培った優秀な技術者を度重なるリストラで放出した結果、海外のメーカーに持って行かれ、そこが潤沢な研究費を出して製品化していってしまう。
これぞ、国家の損失の最たるものである。
一億総活躍とか女性の活用とかおおらかな構想を唱えている場合ではなく、日本の技術者、技術をどう守って行くのか?を考えることが先決である。
・・・と、ここまで書き始めたが、私はあることに気が付いた。

 結局、最終的に、とどのつまり「モノ造りは日本」ということが、これらの様々な事柄によって証明されつつあるということにならないだろうか・・・?
私がいつも唱えているように、技術というものの源泉は間違いなく”現場”にある。いくら優秀な技術者が高級なCADを駆使し、シュミレーションを行ったとしても、現場に横たわる”真実“は全く違うものであったりして、それが新しい発見とか、発明につながって行く。
そして、その発明、発見をするのは、これまたいつも私が言う”コツコツコツコツ”しかなく、 コツコツ精神は、この我が国日本のお家芸だ。

戦後、追いつけ追い越せの掛け声の元、エコノミックアニマルと呼ばれ、ウサギ小屋に住む金太郎飴のような画一的な国民によって、この東洋のちっぽけな国は、世界第二位の経済大国にまでのし上がった。
そして一億総中流社会と呼ばれるような、この国内どこを見ても、いわゆる「貧民街」とか「貧民層」と呼ばれる階層がない理想に近い国家を作り上げたのだ。
この世界の中で誠に特異のエイリアン国民の原動力は、いざとなれば自分の欲求を二の次にしても、会社や世の中のために尽くす他の国では見ることのできない特性なのである。
確かに、最近ではグローバル化の影響もあり個人主義が蔓延し、会社のためとか世の中のため・・というような自己犠牲的な若者は少なくなってきた・・という向きもあろうかと思うが、東北大震災の時の、被災者の人達が、自分も被災者であっても、より困っている人達を助けようとしたあの感動的な場面は、この国に古くは縄文時代から続く、素晴らしい文化のDNAを感じたのは私だけではなかったかと思う。
何千年、何万年と培われてきた、この文化とかDNAとかというものは、ほんの数十年で簡単に消え去ってしまうようなものではない。この国は、様々な異文化や異思考にさらされながらも、このような感覚の人達が未来永劫、そのまま守り続けるであろう。

 ただし、せっかくの素晴らしい遺伝子を持ったこの優秀な国民も、金のため、御身大切を一番に考えている為政者やこれまた御身大切で先の読めない大企業のサラリーマン経営者等の指導者が、この日本の本当のすばらしさや長所を理解せずに、誤った方向に舵を取ろうとしている現在は、非常に私はもったいなく、国の危うさをも感じるのである。

 私の「モノ造り日本論」は書きだすとまたきりがなさそうであるから、話を前に進めよう。

 家電の大企業を見てはっきり分かることは、現在の日本は成熟社会であり、大量生産、大量消費の時代ではなくなってきているということだと思う。
家電製品は元より欲しいものは殆ど持っており、収入が少なければ、ちょっと我慢すれば、どうにか生きられる時代となってきている。
このような市場には、これまでのように画一的な商品は不要である。すなわち大量生産、大量消費の時代はとっくに終わってしまっているのだ。
今我々が必要とするものは、ちょっとした便利な家電であったり、特殊な機器やグッズであったりと多種多様な使い勝手の良いモノということになる。
いわゆる少量多品種の時代であり、多少高くても使い勝手の良い、オリジナル商品的なものを求める時代なのだ。
ダイソン社の掃除機、アイロボット社のルンバ、レイコップ社の布団専用掃除機など、以前には存在してなかったベンチャー企業の製品が最近の家電売り場の花形となっていることが、その一つの証拠かと思う。
いままで大企業は市場調査で何十万台という市場がないと製品化しなかったモノが、最近では小さなベンチャーが何万台でも十分ペイできるような価格で製品を市場に出し、それがヒットでもすれば、それはボロ儲けにつながるということになる。

 ・・・ということは、我々中小零細企業が何かしらの製品を造り、市場に打って出て行く必要があるということかもしれない。
そんな小さな会社が続々出てきたらこの国は再び世界の中で「モノ造り大国=日本」として脚光を浴びる可能性がある。
そう思いついた私がその先陣を切るべきであろうが、考えるとかなり難しい。

どなたか良い知恵があったら、お貸し願いたい。

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この一年を振り返って

今日は12月31日
また新しい年を迎える。
当然歳も重なる。
いくら「生涯現役」を目指し、「万年青年」を自称していても間違いなく肉体も脳も衰えを感じずにはいられない。
11月後半から忘年会の12月第2週にかけて、大連、バンコク、鹿児島・福岡、大阪と毎週の移動の末の忘年会は、私の身体に限界を感じたし、最近はとにかく人の名前を初めとして様々な固有名詞が出てこないとこれは「いよいよダメかな?」と落ち込むこともしばしば・・・。
それでも、私が10数年前から言っていた「高密度コイル」の時代がようやく芽吹き始め、まだまだ歳だから、ちょっと人の名前を思いだせないくらいのことで、ひるんではいられない。
どうでも、このコイルを世の中の1~2割程度浸透させるまでは、頑張ろう・・と思う今日この頃なのだ。

平成27年、2015年を振り返ると、様々なことがあった。
政治的には安倍内閣がとにかくアベノミクス効果による株高・円安で大企業の業績が軒並み上がり不公平感は増したものの総じていえば、以前と比べ結構景気回復、中国の曝買いなども手伝って経済的な浮上感を背景に公明党と共に安定多数を得た。 
またそれを良しとして、安保法案を通し集団的自衛権の行使ができるようになってしまった。
先般NHKスペシャル「新・映像の世紀」という番組で、ナチスドイツの成り立ちの歴史の場面があったが、今の日本はまさかこれから独裁専制で世界に戦いを挑むことはないだろうが、麻生さんが言ったように、この国はこのナチスドイツ生成の頃の政治をそのまま周到した政治を行っているように思えた。
そのころドイツは第一次世界大戦の影響で、経済が低迷し政治的にも混迷していた。
そこで首相となったヒトラーは、それまでのワイマール憲法を変えることなく「骨抜き」にし秘密裏のうちにドンドン独裁制を強めて行った。
逆らうものは排除、国民には景気浮上策(金のばらまき)と報道規制、マスコミを信じてしまう国民は知らず知らず暗黒の世界に引きずりこまれて行った。
しかし、現在はあの頃の世界とは違う、あまりこの手法を使いすぎると、大きなしっぺ返しがくるだろう。

私の考えは、いつもと全く変わらない。
日本は「平和憲法」を旗印に、戦争放棄を世界に大きくPRすべきだ。
これは「縄文文化」という1万年以上も争いもせず集団生活をしてきた日本人だけがなせる業であり、世界平和というよりも地球存続のためには日本が世界をリードして行く必要があることを私たちは自覚する必要がある。
COP21で地球温暖化が叫ばれているが、私に言わせれば、戦争で多くの爆薬を使うことが最も大きな大気汚染であり、原発の事故などはCO2の汚染などぶっ飛んでしまうほどの汚染であり福島の原発付近に住んでいた人たちは恐らく半永久的に戻れない。
人類が未来永劫存続できるような叡智が今の私たちに求められていると思う。
その視点に立ったエネルギー政策、農業政策、人口政策を考える必要があり、戦争をやっている場合ではない。

・・・いつもそうだが、私がここで「国や世界のあるべき姿」を語ってみても、世の中は何も変わることはない。なるようになって行くだろう。
しかし私としては言っておく必要がある。
今この時点で私が感じたこと、思ったことが10年、20年いやもっと先になるかも知れないが、必ず実現するからである。

さて、「高密度コイル」の話に戻そう。
この暮れにかけてこの高密度コイルの話はかなり熱を帯びてきたように思う。
結局、モーターを中心に平角線にしろ丸線にしろ「占積率」を上げることがいかに大事なことかが、多くのメーカーの技術者がようやく気がつき始めてきたということである。
ようやく・・・というのは、私はこのことを既に10年以上前から言い続けてきたことが、最近になってやっと日の目を見始めてきたということだ。(やっぱり10年以上かかった)
恐らく来年は、この高密度コイルはかなりフィーバーするのではないか?と思う。
しかし当社はほんのちっぽけな会社であり、それほど多くをこなせるキャパはない。
恐らく高密度コイルの普及には、タイ、大連、そして強力なパートナーが必要になってくるのではないか?と思っている。

平成28年2016年は、「高密度コイル元年」になるのか!?

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教育について

私はこれまで「日本は”モノ造り”しかない・・・と言ってきた。
 「日本人」は世界の中の“エイリアン”とも言ってきた。
 日本人の祖先は、1万年~1万数千年の間、縄文時代を過ごして来た。これ
は途方もない時間であり、その間、共同の自給自足の狩猟生活を続け、争いは
殆ど無く穏やかに暮らしていたというから驚きだ。
 狩猟といっても、点々と住居を変えるのではなく、竪穴住居で栗やクルミ、
山菜、貝やさかな等を食べ、後は近隣の動物を捕まえて食べていたようだ。
 その時の様々な道具が見つかっている。
 その後、弥生時代に稲作が始まり、地域によっては争いがあったようである
が、総じて争わない人達であったようだ。
 この人と人の和を重んじ、一つのことをコツコツコツコツやり続けるこの国
の人達のDNAは、”モノ造り“には最適の特性なのである。
 
 最近の学生は”モノ造り“に対してはどうだろう?
 コンピュータの時代となり、ネットビジネスが花盛り、金融、保険、商社と
華やかで実入りの良い企業を目指すのは無理のないことだと思うが、自分の手
を汚してモノ造りをしようという人は少ないかと思う。
 私の言うモノ造りとは農業も含まれる。
 今はメーカーに入ったとしても、なかなか大卒で実際にモノを造る部門には
回されることはないため、やはりまず実際に自分の手でモノを造ることはない。
 そこへ持って来て、後継者不足の中小零細製造業はドンドン廃業して行ってしまう。
 ・・・ということになると、日本のモノ造りの将来は・・・ちょっと大変な
ことになってしまう可能性がある。
 画期的なアイデアや技術は実際の現場から出てくるものであり、机の上やコ
ンピュータの画面からはなかなか出るものではない。
 実際、我々の色んな革新的な技術を見ると、常識の中からではなく、殆ど非
常識の世界から生まれてきている。
「そんなことできるはずがない!」と言われていたものが、やむに已まれずや
ってみたら、出来てしまった。・・・というようなことが実際の現場では良
く起きるのである。
 ノーベル賞を取る人も、今までの常識の中でいくら研究をしても、それまで
のものしか出てこない。それこそ何年も何年もコツコツコツコツ、人が諦めよ
うが「我が道を行く」人が、ノーベル賞に輝いているのではないか?と思う。
 
 先祖から受け継いだコツコツ精神を一番必要とするモノ造りをやる人が少な
くなったら、日本は経済的にも、技術的にも衰退する。
 いくら観光立国を目指すといっても、この国はモノ造りなしには生きて行け
ない国であることを、国民全体が認識すべきだ。
 英語を小学校から教える・・とか言っているが、そんな時間があったら、何
か工作をやらせるとか、農業実習をさせるべきである。
 毎年当社には、近隣の中学高より実習体験の生徒がやって来る。
 今年も二人来た。
 感想文を読むと、モノ造りの大変さとか難しさが書かれていたが、当社でゲ
ーム機のコイルを造っており、その作業をやってもらうと、「ああ、これがあ
のゲーム機に付いてるんだ!」ということがはっきり分かり、非常に良い実
習となる。
 の子供は、野菜がどのように育っているか知らない・・・というような話を
聴くが、自分の手で野菜を作ったり、動物を飼ったり、することが私はこの国
にとって非常‐に大切なことだと思っている。
 先般近隣の展示会に、小学生がやはり授業の一環で、わが社のブースに来
て、色々と質問をしていた。
 私はその聡明そうな子供に、このセルコという会社を覚えていて、大きくな
ったら、この名刺を持って面接に来なさい。最優先で入社させてやるから・
・・と名刺を渡しておいた。
 10数年後が楽しみである。

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戦争


フランスのオランド大統領は今回のテロを受け、「フランスは戦争状態」に突入していると宣言した。

 また先般のエジプトのロシアの旅客機墜落事件がテロであると断定し、こちらもプーチン大統領がテロと断固戦うと言っている。

 ただ、イスラム国と言っても、きちっとした国ではないため、空爆をすると必ず一般市民が巻き込まれる。

 難民の中には、この空爆を恐れて逃げ惑っている人も多いようだ。

 また空爆をすれば、その報復として、どこでいつどんなテロが起きるかわからない。

「やった」「やられた」の連鎖が、どんどんその規模を広げて行く。

 世界のテロの犠牲者は2000年には405人だった。

 2001年のアメリカ同時多発テロで3,547人と跳ね上がり、その後、年々増加し、2005年には14,602人と1万人を超えた。

 そして、昨年は何と32,727人と増えて来ての今回のテロの連鎖である。

 私は、これまでの戦争、ドイツのホロ・コースト、広島・長崎の原爆そしてその人数で揉めている南京大虐殺、また韓国の慰安婦問題等々、終わってからその責任問題が云々と言っているが、私は戦争と云うモノは「人を殺す」ことが最大の任務である以上、これらのことは起こるべきして起こったとしか言いようがないと思っている。

 目的が目的だけに、戦時中は「いかにしたら効率よく多くの人間を殺すことができるか?」をそれこそ寝る時間を惜しんで研究していた人達がいたに相違ない。

 だから爆弾、毒ガス、薬品、そして原爆とドンドン進化(?)して行き、一瞬にしてより多くの人間を殺傷できる兵器が賞賛の的となったはずである。

 ところが、それから時間が経ち、後から振り返ると、「なんであの時、あんなことをしたのだ!」という話になる。

大事なのは、「戦争」をしないことである。

「やられたからやり返す!100返し!!」は、恨みの連鎖を生み、どんどん悲劇を拡大する。

 特に、対象が「テロ」ということになると、それこそ、どこでいつ誰がどうしてどんな規模で起きるか分からないという大変な恐怖を世界中にばら撒く。

・・・とこんなことを私が言ってみても、世界の動きは何も変わらない。

 ただただ自分の非力さを感ずるだけだ。

ただ、私は考える。

 こんなに文明が発達し、世界のどこに居ても携帯が繋がって、コミュニュケーションがいくらでもとれるこの時代に、未だ未だ戦争をしなくては収まらないこの人間の“業”というか?”愚かさ“というか?

 行くところまで行くしかないのか?…という思いがまた募るのである。

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