ヘリコプターに乗る

 カナダは且つてイギリス領であったにも拘らず、アメリカとの地続きの関係から左ハンドルとしたとのこと。

 8人乗れる大型ランドクルーザーをレンタルし、運転は息子のミキヨシ君。
 タイも日本と同じ右ハンドルのため慣れないと大変のようだが40代の彼は手慣れたもので、全く違和感を感じさせずに運転している。
 ミキヨシ君はたまたま今回アメリカの得意先へ出張ということでバンクーバー迄足を伸ばし、我々と合流していたが、三日後には我々と別れて一人アメリカの方へ行くことになっていた。
 旅行後半の兄の運転時には、最初は同乗者から「あー!」とか「キャー!」とか声が上がるような運転振りであり、ようやく慣れた頃には帰る日になっていた。
 ”若さ”はやはり何をやるにも大事な要素である。

 この大型ランクルに乗って、一行はバンクーバーの北にある”キャラピノ吊り橋”と云う長さ137メートル高さ70メートルという長い吊り橋、それも渡るとユッサンユッサン揺れる吊り橋に行き、みんなで渡った。

 私の女房はカナダに来る前は、とてもこのような場所は行けないため車椅子で待っているか?と思っていたのが、あの過酷な?トランジット長時間飛行もなんのその、この吊り橋も渡るとのこと。
 結果的にこの日の万歩計は1万6千歩という驚異的な歩数であり、女房は多少足をひきずり気味ではあったが、ほぼ自力でクリアーしてしまった。
 筋肉云々もあるが、やはりカナダに行きたい”という気持ちがその回復を倍も三倍も加速させたのではないか?と思った。
 
 ここからさらに100人も乗れるのではないかと思える大型ゴンドラに乗りグラウス・マウンティンというバンクーバーの街が一望できる山に登った。
 そこで兄が突然「ヘリコプターに乗ろう」と言い出した。
 ヘリコプターは私も女房も未だ乗ったことが無く、ちょっと不安があったし、結構が金額も嵩むが、この際思い切って挑戦してみようということで、全員が乗るということに決まった。
 いざ、ヘリコプターの乗り場へ行くと、係員とミキヨシ君が何やら係員と交渉している。
 下と上のコミュニケーションが取れておらず、お客のダブルブッキングをしてしまったとのこと。
 兄は日本語で係員にブーブー文句を言ったが、勿論通じはせず、結局一時間程遅れて3人づつ乗った。
 ホテルの”予約なし”の件といい、カナダ人は良くい言えば”おおらか”、悪く言えば”いい加減”なのではないか?という疑念がこの時人芽生えた。
 
 いざという時のことを考えて夫婦、親子は別々に乗った。
 理由は、”お葬式を相手が出せるから・・・”というようなことであったが、いざとなると人間は取りあえず変なことで意思決定をするものだ。
 ちょっと曇っていたが、バンクーバーの外れからバンクーバーの街をヘリコプターで見る・・・という超豪華な観光となった。
 やはりヘリコプターは少し怖い感じがしたが、山や谷の上を行く快感は何とも言えなかった。

 二日目、バンクーバーのグランビル・アイランドというところはとてもにぎやかで様々な野菜や果物のマーケットがありショッピングを楽しんだ。

 またオーストラリアのオペラハウスを思わせるようなシルバーのギザギザのツノが出た建物のカナダプレイスというところで、ディズニーにあるような椅子を動かしながら超大型スクリーンでその臨場感を楽しむアイマックスシアターがあり、ここに入ったが、これはディズニー以上に凄かった。
 テーマはカナダの大自然であり、モーター付きのパラグライダーで撮ったものと思われる大迫力映像が視野全体に広がり、原野の上を飛んでたかと思ったら突然底が抜けて断崖絶壁の上に出たり、ナイアガラの滝の上を飛んで見せたり・・・と前の日の桁違いに高かったヘリコプターよりも危険もなく迫力があった・・・とみんな大興奮であった。

 街でサムソナイトのバッグの専門店があり、前の日から買いたいバッグあり、よっぽど買おうかと思ったが、結局思いとどまった。
 日本にはなかなかこの手の店は無く、品揃えがちょッと違う。

 メインのロブソン通りで、洋装店に入ったらなかなか出て来ない女性軍と別行動を取り、今話題をさらっているテスラの電気自動車の展示場に行った。
 ボンネットとトランクが両開きに開かれていたが、その中は全く何もなく、荷物の収納スペースとなっている。
 4秒で100メートル走ると書いてあった。
 価格は最初兄が100万円だというから、これが100万円ならすぐにでも買いたいと思ったが、一ケタ違って1000万円であった。
 逆に中に何もないのに1000万円は高すぎると思った。
 コイルの部分がちらっと見えたが、これを当社の高密度コイルに変えたら100メートルが何秒になるのか?見てみたいとも思った。
 
 二日目の夜の食事は、昼間ヘリコプターに乗ったりして散財が多かったため、日本やタイから持ってきたカップヌードルが夕飯ということになった。
 カナダは珍しく水道水が飲める国であり、お湯を沸かして次々とカップラーメンにお湯を注いでみんな仲良く美味しく食べた。
 次の日は飛行機で1988年に冬季オリンピックが開催されたカルガリーに向けて出発する。
 夜は8時半頃まで明るく、日本との時差も手伝って、夜だか昼だか分からないような感覚で早めに床についた。 

(写真は後日入ります。読んだ人は後日=月曜日 またこのページを観てください)

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予約したホテルに泊まれない!


 バンクーバーに着いて、聴かされた第一声は・・・
「予約してあったはずのホテルに兄達も我々も全く予約されておらず、おまけにバンクーバーはメチャ混んでおり、他のホテル探しに大分苦労し半日もかかって探し回ったのだとのこと。
 兄はバンコクから、私は日本からそれぞれ別々に5月中には予約し、それぞれ払い込みも終わっており、ネットの旅行会社からも予約の確認メールも入っていたにも拘らず、そのホテルには兄、私のどちらの予約とも入ってないとのことだった。
 最終的に、第一日目はバンクーバーのメイン道路にある他のホテルに兄達も3人、我々も3人同部屋、それもそれぞれ別のホテルに泊まり、次の二日は同じホテルでそれぞれ別々の部屋が確保できた。
 
 旅行の初日から”トランジットESTA問題”、そして”ホテル予約なし”問題というハプニングが連発され、行く末が案じられたが、とにかく無事にバンクーバーで兄弟夫婦・姉、そして兄の息子の”兄弟集団6人”が一堂に介し初日のディナーは美味しいという韓国レストランの焼肉料理から始まった。
 
 このホテル予約なし問題は、結局日本に戻って3日後まで引きづった。
 旅行社が、このホテルと全く連絡が取れなかったというのである。
 私にとっては、世界的に有名なこのネット旅行社が契約しているホテルと2週間近く全く連絡が取れないなどということは考えられないため旅行中、その返金問題でイヤーなメールのやり取りをし続けることになった。
 メールはWi-Fiを定額で使えるというセットを羽田でレンタルして行き、ほぼこの装置でカバーできた。
 ロッキーの山のホテルではWi-Fi使用料が5000円などという法外なところもあり、自前で用意して行くのが正解であった。

 最初泊まったホテルは急遽確保したにしては結構名の知れたホテルであり、内容もそれなりか?と期待したが色々問題があった。
 バス・トイレの浴槽はあったが栓が無いため湯船にお湯を張れない。
 またシャワーは上部に固定式でジャバラのホ―スが付いていないため不便。
 しかし、トラブル”百戦錬磨”の私にはその位の問題は全く意に介さない。
 備え付けのタオルをその排水口に押し込み、お湯を溜めて旅の疲れを癒した。
 松本の姉は、自分のノウハウである”海外旅行には洗面器”だと100円ショップの洗面器を持って行き、これにお湯を汲んで体にかけシャワー代わりにできたと自慢していた。
 このシャワーについてはカナダ滞在の2週間の間、殆どのホテルで固定式でホースは無かったため、シャワー党の姉はずっと洗面器を使ったようだ。
 また、トイレのタンクの中のパッキンがヘタっており、水が水槽に溜まらないため、用足しの後の水がジャーと流れない・・・と云う問題も発生、これも私は、湯船に溜まった湯を、その洗面器3杯から4杯便器に流し込むと、きれいに流れるという対応策を取り事なきを得た。
 とにかく海外でのトラブルは、できればカッコよく呼びつけて対応させたいところであるが、私のへぼ英語力ではおぼつかない。また他の国では何度も経験しているが、日本のようにすぐ来て丁寧に対応してくれないことも多いのだ。
 こんな場合は、”持てる知恵を使って切り抜ける”ことが大事だ。
 
 以前タイ滞在時に、1日2000円以下で朝食付きというメチャ安いホテルに泊まった時は、冷房が効きすぎて眠れず、冷房を止めると蚊に刺されて、これまた眠れない。冷房の調節は調節のノブの部分が無く、指では回すことができない。
 そこで私はペンチを買い、このペンチで微調整をして切り抜けた。
 
 中小零細企業の社長は、とにかく様々な問題に直面しするが、とにかくそこから逃げることは出来ない。
 現在のような全く不透明で、いつ何が起きるか分からないような時代に会社を維持し続けるには、それこそ知恵と工夫で乗り切るということが絶対必要条件となる。

 また今回は車椅子を運ぶという問題があったため、持って行く荷物は最小限にしようと、洗面用品は絞りに絞った。
 そうしたら、今回宿泊したカナダの全てのホテルには、日本では当たり前、中国でもタイでも殆どのホテルが備え付けているハミガキとかヘアブラシとかヒゲソリと云ったインフラが全くない。こちらは姉に余分な歯ブラシをもらったり、持って行ったものでどうにか間に合わせた。
 
 翌朝は、みんなで街へ朝食に出かけた。
 最初に入ったレストランで外のテラス席に座ったが、いくら待っても注文を取りに来ない。
 とりあえず水やメニューを出して客を逃がさないような努力をしようというような様子も見えない。
 中を覗くと、客が満載で対応ができないようなため、「こりゃダメだ!」と判断し、6人ぞろぞろと別のレストランを探した。

 気候は日本と違い非常に涼しくさわやかで快適であった。
 緯度的には日本で言うと樺太位のため、夏でもそんなに暑くなく冬は暖流の関係で暖かいというから、ここは誰でも住みたくなる理由が分かるような気がする。
 しばらく歩いて結構盛っているパン屋さんが見つかり、ここで食べようということになったが、結局、このパン屋さんは日本人の店員も居て当たりであった。
 どのパンを食べても非常に美味しかった。
 
 旅行に行き、確かに景色とか観光は大事であるが、基本的に大事なことは”食事”では無いか?と思う。
 最初バンクーバーに来て、韓国料理の焼肉レストランと、朝のパン屋さんでの食事はかなり良い印象であったが、それがカナダの標準ではないことが、徐々に分かって行く。
 カナダはフランス系の人が多いと聞いていたため、私は食事はかなりイケるのではないか?と思って期待していたが、ここは以前イギリス領だったということで、ニュージーランドやオーストラリアと同様、基本的には食事はそれほど美味しくはない。
 軽いモノは殆どハムやチーズを挟んだサンドイッチが多いが、これが見た目ど美味しくない。
 これは、中国のパンも同じで、なんでこんなに違いがあるのだろうと思う位、日本のパンとの相違がある。
 コーヒーもアイスも量こそは多いが円安の影響もあり450円から550円と決して安くない。
 最近タイや中国へ行っても日本の物価の安さは凄い・・・と感じることが多い。
 今、人手の問題、過酷な人の使い方で問題になっている「すき屋」の牛丼や「丸亀讃岐うどん」が300円位で食べられるということはこのカナダでは考えられない。
 はっきり言うと、「まずくて高い」のである。
 
 最近、ご飯の国日本がパンでも世界の先端を行っているような気がする。
 日本という国は、海外から来た言語でも文化でも食べ物でも全て創意工夫、学びながら自分のモノにして行く。  そして最終的にはその道で一番になってしまう。
 我々が手掛けるモノ造りも正にそうである。
 今、韓国や中国が日本のモノ真似だと言われているが、日本も且つては”モノ真似大国”であった。
 先進国で出来上がっているものを見様見真似、あるいは盗んで、同じモノを造ろうとした。
  しかし、それから60年、今や日本は世界に冠たる”モノ造り大国”となっている。
  今は”メイド・イン・ジャパン”は余りもてはやされてはいないが、間違いなくこれから日本国内で造るものが徐々に世界を席巻して行く。
 ・・・これは私の単なる”勘”であり期待でもある。
 この詳細は、先般電子自主出版した「2020年東京五輪開催の年にメイド・イン・ジャパンが復活する」(中小零細製造業の活用でメイド・イン・ジャパンが大復活する)という本に詳しく書かれている。
 本は殆ど売れないが、これは様々な私の体験から来る”真実の姿”であり、私の日本のモノ造りに対する”信念”でもあある。
 論理はごく単純である。
「いいモノはいい!」「いいモノは最終的には正しく評価され、必ず利用される。
 しかし、その段階や過程は様々であり、必ずしも”良いモノ”が短期間に世界中に広がるか?というとそうでもない。確かに日本だけにしか通用しないような”ガラパコス製品・商品”も多くありそうだ。
 
 ここカナダでも、初日から、日本人の眼から見た不具合、不都合、不便利がいくつも出てきたが、果たしてこれらのことがこの国の人達が、須らく認識・理解し改善して行くのかどうか?ということは全く分からない。
 そんなに”便利快適”、”気が付けば即改善”、”万遍なくリーズナブルで美味しい食べ物”・・・等々の日本の常識が、この国に本当に必要なのか?そういったものを追求する国民性が無く、「これでいい!」「これで十分だ!」とほとんどのカナダ人が思っているとしたら、この国には日本の”モノ造り”、日本の先進的な文化”は全く必要が無いのではないか?という疑問も沸いてくるのである。

 しかしここバンクーバーは、気候、街の雰囲気、店やレストランでの対応等の面では全く問題なく、素晴らしい。
 このバンクーバーでは、アメリカの映画の色んなシーンにこの街が多く使われているという。
 映画の撮影に街そのものが全面協力するためだそうだ。
 そういえば、私の好きなアメリカ映画のシーンに出てきそうな雰囲気の景色がアチコチにある。
 普通、日本では街から車を締め出し、人が安心して買い物ができるように・・・と歩行者優先で、車をチョイ置きしても直ぐ切符を切られてしまうということがあり、結果街には人が行かなくなり、シャッター商店が増え、街が衰退して行く・・・という歴史があるが、このバンクーバーも且つてはそのような政策を取ったが、直ぐに止め、逆に車を町に沢山入れる方向に転換し、それがこの街を活性化させているという。
 東京のような都会はともかく、私達が住む田舎は、全くの”車社会”となっており、ホンの三分先まで行くのにも車を使う習慣がある人達にとって、車の締め出しをした街にはまず行かない。
 大きなゆったりした駐車場があり、モノがあふれる大型ショッピングモールやスーパーに客が流れて行くのは当然の成り行きだということが、このバンクーバーの街を観て思い知らさせた。
 街の路上にはパーキングメータが取り着けてあり、1時間、あるいは2時間駐車がワンコイン、ツーコインで自由に出来るようになっている。
 
 我々はこの夢のような街を散策し、ショッピングを楽しんだ。
 私は今回このカナダ旅行のために買った今流行のミラーレスのカメラで取りまくっっていた。

 初日から、それぞれの国や街の在り様に着いて、色々と考えさせられる。

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トランジットも楽じゃーない

私の場合は、いつも出来るだけ安いチケット・・・と言うことで苦労している。

今回のデルタ航空も、5月の時点で最も安いチケットであり、当然一回トランジットがあったが、次に安いチケットは途端に6~7万円違ってしまうため、必然的にこのチケットに決まった。
 それがアメリカのシアトルでトランジットしてバンクーバーへ行くという便であった。
 後で、分かったがシアトルとバンクーバーは目と鼻の先であり、途中中継で・・・と云ったようなイメージは無く、距離的に言えば、直接行った方が近いくらいであった。
 
 このシアトルトランジットが、大変なことになるというようなイメージはこの時点では殆ど無かった。
 1ケ月前に女房が足を折ったが、最終的には一緒に行こうということになり、ビジネスクラスにする必要があるかと思ってデルタ航空に尋ねてみると、車椅子の場合は色々と便宜を図ってもらえそうなため、そのままエコノミ―で行くことにした。
 さて当日は、荷物はキャリーバッグも二人で1ケだけ、後はそれぞれの手荷物にし、車椅子に女房を座らせ電車で行くことにしたが実際女房の方は、殆ど車椅子無しでも問題はなかった。
 しかし大事を取って飛行機は車椅子対応で乗り込むことにした。
 羽田には姉が中央タクシーで松本から行き、3時間前には着くということだったので、我々夫婦もちょっと早めの新幹線で羽田に向かった。
 3時間前であったが、早めにチェックインし落ち着きたかったため、デルタのカウンターに向かい手続きしようとすると、車椅子であったために、係の女性が色々と世話を焼いてくれた。
 ・・・ところが、その係の女性が「ESTAに申し込みがお済ですか?」と聴く。「エ・ス・タ・・・!?」私は初めて聴くその言葉の意味が良く分からなかった。
 ESTAというのはアメリカのビザ免除プラグラムであり、アメリカに行く日本人はビザを取る代わりにこのESTAというシステムに登録する必要があるということである。
 我々はアメリカではなく、カナダに行くので、関係ないのではないか?と云ったらトランジットの際にも必要なのだという。
 トランジットで、別に飛行場の中だけしかいないのにそんな面倒なことをしなければならないのか・・・と思ったが、決まりは決まりでどうしようもない。
本来は米国入国の72時間前には澄ませてなければならないのだそうであるが、この係の人は今からでも間に合います・・・とのこと。
 空港に備え付けのコンピュータから申し込んでくださいと言うので、それなら慣れている自分のコンピュータでやろうと、コンピュータを取り出し入力をするのだが、非常に文字が細かく入力方法も複雑でなかなか大変。
 結局その係の女性が付きっきりで3人の登録を済ませた。
 自分で打ち込んでもらいたかったが、何故か最後まで一字一句をこうしてああしてと言うだけで自分では打ち込もうとはしなかった。
 焦りながらのこの入力だけで一日分の精力を使い果たしたような気がした。
 結局、入力に優に1時間以上かかり、余裕のはずの時間が無くなり、車椅子であるため早期搭乗をしなければならないのが、大分遅れて行くことになってしまった。
 
 約9時間のフライトの後シアトルに着いた。女房を車椅子に乗せて一旦出国し、また入国するということで、税関に向かうのだが、係員が英語で「車椅子を押しましょうか?」と言ってくれたのに、「ノープロブレム」とカッコを付けて言ってしまったが、後から係員が付いていればその後が絶対楽だったのに・・・と後悔することになる。
 日本であれば、車椅子に乗っていれば、税関で「こちらへどうぞ!」と案内してくれるが、このアメリカはそうはいかなかった。
 車椅子対応で最後の最後に出て行ったため、列の一番後ろで入国審査の順番を待った。
 かなり待った後、もう少しで順番というところで、ようやく車椅子は特別の窓口へ行けと言うことになり、三人でそちらへ向かった。 
 黒人のおっさんが、偉そうに英語で訳の分からない言葉を言うため、何度も聞き直したが最後まで分からずじまいだった。
 アメリカでは、全員の両手全ての指紋を取らなければならない。
 私が椅子に座ったままの女房の面倒を見ていたら、「お前はどいていろ!」と言われた。とにかく言葉のよく通じないところで、初めてのことをやるのは大変である。
 結局、バッグも一度ターンテーブルから拾って簡易式ではあったが再度入国手続きをした。
 女房の車椅子は、かなり入念に調べた。
 金属の部分は勿論であるが、麻薬の反応検査もかなり入念に行った。
 
 軍事大国アメリカは、世界で最も安全な国でなければならないが、私がアチコチ行っている範囲内では、最も危険に満ちていて、最も警戒心が強い国と映る。
 国を守るために軍事力を強化するという論理は、このアメリカを見ている限り疑問が沸いてくる。
 戦争をやり、恨みを買い、テロによる復讐があるから、結局はどんなに強力な軍事力があっても国民を守り切れないというジレンマがあるのである。

 どうにかこうにか3人、この難関を通過しトランジット機に乗って一路バンクーバーへと向かった。
 バンクーバーに着き、兄夫婦とその長男であり、現タイTIT社の幹佳社長の顔を見た時には心からホットとしたものだ。
 現地時間は23日午後5時半。
 結局、24日の午前0時半に成田を飛び立ち、前の日の夕方バンクーバーに降り立った。
 日本から16時間前の時間に戻ったということである。

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夢のカナディアンロッキー大旅行

 これより、数回に亘りこの「夢のカナディアンロッキー大旅行」を掲載します。

1、プロローグ 
 8月23日の深夜、正式に言うと8月24日午前0時半羽田発、9月5日の午後10時羽田着のデルタ航空便で、私共夫婦と同じ長野県の松本に住む姉、そしてタイバンコクに住む兄夫婦は我々よりも一日早くバンクーバーに着いており、また帰りも我々より一日多くアチラに滞在して帰るため、兄弟夫婦プラス姉の、気持ちは未だそれぞれに若いが、72歳の姉から62歳の私の妻までの高年齢のグループによるバンクーバーからカナディアンロッキー、そしてビクトリアへの旅をしてきたのである。
 我が人生に於いて最長にして最大の「夢」の大旅行であった。 

 いい映画には必ず”伏線”と云うものがあり、その主人公がどうしてそんなに危険なこと、あるいは特別なことをしなければならないか?とかという理由付があるものである。
 我々の旅行にも勿論、その伏線があった。 

 事の発端は今年の4月末にタイの兄の会社の20周年記念兼私の兄の古稀のお祝いであった。
 私ども夫婦と私の姉の私達3人は、そのお祝いの席に呼ばれタイバンコクのゴルフ場で開かれたパーティーのその場に居た。
 そのお祝いの席で、兄の会社の息子でありタイの会社TITelectoronics社の現社長である幹佳(ミキヨシ)社長から、兄夫婦に”カナダ旅行”がプレゼントされたのだった。
 
 このカナダ旅行プレゼントにもまた伏線がある。

 今から約20年ほど前までの10年間、この兄夫婦はカナダのバンクーバーに住んでいたのである。
 住でいたと言っても、奥さんと二人の子供は完全に移住し現地暮らしし、兄は当時は私の今の会社セルコの社長であったため、1ケ月の半々を日本とカナダに住むという暮らしをしていたのである。
 であるから、二人の息子と娘は英語は堪能、奥さんも日常会話には殆ど問題無いくらいに話す、私の兄は今もタイにその後20年住んではいるが、タイ人とは単語を並べて会話をするが現地の言葉を覚えようとする気が全く無いため、英語も勿論話さない。
 海外で個人旅行をエンジョイするポイントは、ある程度、現地で会話ができることが必要最低条件となる。
 必ずと言ってよいほど、何らかのトラブルが起きるからだ。

 この”カナダ旅行プレゼント”と云う話には、当然の如く、我々3人も便乗しようじゃーないか?という話が持ち上がった。

 兄一家が約10年バンクーバーに済んでいる間に、未だ存命の私の両親、64歳で病気で亡くなってしまった私の一番上の姉も数回に亘ってバンクーバーに行っていたが、私は当時全くの”仕事人間”であり、社長が半月居ない会社を守り、運営しなければという意識が強く、また2年間だけではあったが当時のセルコの従業員が4名ずつ選抜され、バンクーバー旅行をしたりしていたが、結局私は一度も行かなかったのである。
 また2番目の松本の姉は、その頃旧家の姑に使えており、旅行どころかなかなか実家にも帰してもらえないような非常に過酷な生活を強いられていたため、当然バンクーバーには行けなかった。
 
 更に、このメンバーでの旅行には伏線がある。

 一昨年の12月末にこのメンバープラス従妹の女性の6人でオーストラリア・シドニーに年末大晦日の花火を見に行こうということで、オーストラリア旅行を経験しており、その旅行がハプニングも色々あり、大変面白かった・・・と云う好印象な体験があった。

 これらの”流れ”からすると、当然このグループによるカナダ旅行はあり・・・と言うことになる訳である。
 また、カナディアンロッキーは、兄も10年間で10回ほど行っており、どこにどう泊まり何を見たらよいかを熟知している訳である。

 早速5月頃から計画が始まり、行ってから3日間のバンクバーと帰りの3日間のビクトリアへの移動はレンタカーで対応、カナディアンロッキーへは、兄の知識と旅行社との綿密な打ち合わせの上の行程が組まれ、6月にはほぼホテルや航空券を抑えて、この旅行に臨んでいた。

 しかし人生どこに何があるかは分からない。

 女房の大腿骨骨折と手術で旅行がピンチ
 7月20日、ここ数年毎年恒例となった、北海道札幌に住む私の平塚という友人のところに昨年見事北海道の山を最後に100名山登頂の偉業を成し遂げた神奈川に住む宗本夫妻と我々夫婦も合流し、3夫婦プラス平塚君の友人の7人でイタリア人の経営するとても美味しいイタリアンレストランで、大ワインパーティーをするということになっており、今年も私は女房と共に北海道旅行で、昨年は旭川、美瑛を中心にレンタカーで回ったが、今年は平塚夫妻が積丹半島を自家用車で案内してくれるということであった。

 ”積丹ブルー”と云う非常深く濃いブルーの海を満喫、またすぐに売り切れてしまう”うに丼”を堪能し、平塚夫妻がお奨めの民宿に泊まり、これまた海の幸満載でとても食べきれない料理を堪能し、風呂に入って寝ようとしていた時、事件は起きた。

 私に次いで3階にあるお風呂に行った女房の叫び声が、二階の隅の部屋で寝始めていた私の耳に飛び込んだ。
 「お願いです!」「誰か来てくださ~い!」と悲痛な叫び声に私は驚いて三階の女子風呂に駆け上がって行った。
 そこには女房が倒れていて、どうやっても起き上がれないという、風呂場と云うとどうしても風呂場の中かと思ってしまうが、女房はお風呂の入り口が真っ暗で電気のスイッチを探して30センチくらいの段差に気付かず、足を救われ大転倒をしてしまったようだ。 
 私は即、民宿の人を呼び救急車を要請し、救急病院に運ばれ、レントゲンの結果、”大腿骨骨折”と云うことで、私が見ても明らかに骨の一部が粉々で無くなってしまっていた。 
 結局20日に小樽で転んで骨を折り、2日後札幌に移動、手術は24日、この間、たまたま平塚君の友人の従兄が札幌でも有名な整形外科病院の副医院長だということで、色々便宜を図ってもらい24日に手術ができた。
 手術の前に恐る恐る担当医に聞いたら「カナダ旅行?それは無理です!」というそっけない答え。
 私は諦めかけて松本の姉にその旨を伝えると、姉は「それは一人で二週間も残して行くのはかわいそうだから、車椅子でもいいから是非連れて行くように・・・・」「お母さんも車椅子でハワイまで行ったことがあるから大丈夫・・・」との激励のお言葉・・・。
 本人に言ってみたら、本人も行きたそう。
 そこで、お医者には内緒で、そのまま連れて行こうということになった。
 
 この大腿骨骨折というのは、年寄りに多く、殆どが骨粗鬆症の人が多いとのことであったが、女房の場合は骨は正常であり、相当の転び方をしたのだろうと先生が言っていた。
 この手術は、最近の技術が大分進歩し、骨の代わりにチタン合金を体内に入れるが、ギブスとかの必要が無く、手術の翌日からリハビリができるということだったが、女房は数日おいてからリハビリが始まった。
 それが、一度も「痛い」という言葉が発せられず、最初は車椅子、その後は歩行器、そして数日後には何もなしで歩けるようになっていた。
 2週間後、札幌から小諸の病院に移る時も、かなり大げさに車椅子レベルの移送計画を立てていたが、結局は余り必要が無かった。
 小諸の病院の診察の結果、かなり回復しているとのこと。
 
 62歳という年齢からすると、結構筋肉が付いており、転倒後の全ての処置がベストであったというお褒めの言葉を戴いた。
 普段、私と共にジャズダンスを習い、カーブスという女性専門のフィットネスクラブに通っている効果が出たのかも知れない。
 それにしても、先生には「この月の23日にはカナダに行きたい」とはなかなか言い出せず、結局女房が直談判して2週間後の8月17日に強引に退院してしまった。
 それから一週間もしないうちのカナダ旅行である。

 娘や息子、札幌の友人達からは、「無謀だ!辞めた方がいい!」との声が上がったが、殆ど払い込みも済んでおり、キャンセルも大変なため、そのままカナダ旅行へなだれ込んだ。
 行く前から”波乱含み”の夢の大旅行であった。

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